【団塊記者の取材回顧録】俳優・高倉健さんが悪性リンパ腫のため、83歳で亡くなったことが明らかになった18日、日本中に激震が走った。1960~70年代にかけて任侠映画で一世を風靡し、その後も数々の名作に主演した健さん。本紙でもこの時期、何度もインタビューし、健さんはそのたびにキチンと答えてくれた。哀悼の意を込めて、その模様を振り返ってみる――。

 健さんを最初に取材したのは1973年6月下旬のこと。東映「山口組三代目」(山下耕作監督)に山口組・田岡一雄三代目組長役で出演していた際に東映京都撮影所で話を聞いた。

「実在の人だから、やりにくいですね。でも、人間的には興味があります。死に物狂いで生きてきた人で、ぼくにとっても良く分かります」
 この作品は“山口組礼賛映画”との批判もあったが「実際にあったことを、あったままでやるのはいいんじゃないですか。『ゴッドファーザー』もアメリカのマフィアを克明にやったものだし」

 映画は大ヒットして74年、続編「三代目襲名」が製作された。同年7月、同撮影所で撮影中に話を聞くと「面白いのをやれば客が入る。そのためには、各社の枠にこだわる必要はないんじゃないか。勝(新太郎)さんがウチの映画に出て、ぼくが勝プロの映画に出ると、交渉はどんどん広げていくべきだ」と力説。

「将来は(東映から)独立したい」と独立の意思を明らかにした。

 74年12月下旬には「日本任侠道・激突篇」(山下耕作監督)を同撮影所で撮影中にインタビュー。

「任侠ものに真正面から取り組んだものはここ1、2年やっていないので張り切っています」。同年の東映作品の配給収入は1位が「ゴルゴ13」、2位が「三代目襲名」と健さんの映画が1、2位を独占した。

 75年2月24日には、東映東京撮影所で「大脱獄」(石井輝男監督)に出演中の健さんを取材。当時は東映が任侠路線の打ち切りを決め、健さんは現代もののアクション映画に挑戦していた。

「(任侠映画は)飽きたというと語弊があるけど、やっぱりあれだけ続けると型にはまってしまって、新味が出なくなりますよ」。マンネリを嫌い、常に新しいものを求める映画人としての情熱を持ち続けた。健さんに「ファックシーンなんかはどうか?」と質問すると「ファックシーンがあるから新しいなんて、ぼくはちっとも思っていませんよ。例えばね『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のマーロン・ブランドみたいな感じで、入れ墨しょった中年男が流れ流れて女郎部屋に入り浸り、女郎とセックスに明け暮れるみたいのだったらやっても面白いかもしれないけど、とにかくまがい物はだめ」と語気を強めた。

「いろんな役をやりたい。会社はなんとか路線ってすぐ決めたがるけど、そうじゃなくて、いろんなキャラクターの役をやっていきたい」

 75年10月17日、大映「君よ憤怒の河を渉れ」(佐藤純弥監督)のロケが行われた北海道・浦河町の牧場。勝さんと共演した「無宿」(74年、勝プロ製作・東宝配給)に続き、東映以外の作品で注目されていた。

「一つの会社だけでなく、ベストのキャスティングを組むためにも適材適所というのがこれからの映画には必要。東映も大映もないですよ」、「馬で北海道の原野を駆けめぐったり、セスナ機を飛ばしたりアクションをふんだんにこなします。ぼくの新しい面を見てもらいたい。これからは一本一本が勝負になるでしょうね」

 映画へのこだわり、情熱、粘り強い努力で前人未到の新境地を切り開いていった。(阪本)