吉野家の業態が変わる!? アルバイトから吉野家トップに上り詰め、22年間社長を務めた“ミスター牛丼”安部修仁氏(65)が本紙の単独インタビューに答えた。安部氏は1970年代の吉野家の急成長、倒産、復活、2004年の牛丼販売停止と再開など、天国も地獄も味わった人物。8月いっぱいで事業会社吉野家の社長を退いた安部氏が語るピンチの乗り越え方、ダメなリーダーとは――。

 ――なぜこのタイミングで一線を退いた

 安部氏:以前から65歳までに、と決めてたんです。64歳11か月、ギリギリだね。実は50代後半、持ち株会社に移行した07年から、世代交代を意識していました。リーダーづくりは時間がかかります。ロングレンジの、最も重要な課題でした。

 ――新社長に河村泰貴氏(45)を指名したのは

 安部氏:彼は人を大事にするんです。人を大事にするということは事業も大事にするということ。彼はセゾン総研に2年ちょっと出向して、様々な事例を学び、目を養ってきた。そして何よりいいのは自分の決めたことを客観視して否定できる。これは大変大事なことです。事業がダメになる要素って2つあるんですよ。

 ――といいますと

 安部氏:ひとつは悪くなった原因を他に求めること。銀行が金を貸さない、競争相手が妨害した、さらにはお客さんが分かってくれない、とね。こうなったら悪くなる一方。生き残れるところは客観的に現実を分析して、自分に責を求めてクリアしていく。

 ――もうひとつは

 安部氏:どこの組織にも5~10%のポジティブにリーダーシップを発揮する人たちと、5~10%のネガティブに否定論を張って足を引っ張る人たちがいます。残りの8~9割は流されやすく、放っておくとネガティブな方に流れ、会社はバラバラに。この人たちを引き込むのが大切です。

 ――なるほど

 安部氏:リーダーで一番良くないのは、(プロジェクトなどを)自分で言い出したからと、続ける理由を探してやめないこと。最初は小さな穴でも時間をかけると取り返しがつかなくなる。やめようというのは少しの勇気があれば言えます。「朝令暮改」は悪いイメージで使われる言葉ですが、状況が変わり、ダメならすぐにやめる判断ができるのはリーダーに求められる大きな資質です。

 ――米国でBSEが発生して輸入が止まり、04年2月から牛丼が販売できない時期があった。社内の不安にどう対応したか

 安部氏:すぐに社内に向け「吉野家は無借金。何もしなくても1年間給料が払える資金はある」と伝え、同時に新商品の開発を始めました。BSEの発生が分かったのが03年12月24日。メーカーさんの工場は28日からお休みに入る。一番悪い時期だった。25日からすぐに新商品開発に入り、早い商品は年内に用意できて、しばらくは牛丼を売りながらトライアルです。通常なら年末のあいさつに使う応接室は緊急対策室となり、毎日ミーティング。連日工場とお店を回り、社長になって初めて年末年始を会社で過ごしました。

 ――つらい思い出か

 安部氏:いや、うちには、あのころはおもしろかったと言う人が多い。乗り越えて喜ぶことができたからですね。絆はアクシデントを乗り越えて強くなる。我々にはあの経験が極めて大きな財産になりました。経験した連中の細胞となり、知らない世代に自分の言葉で伝えることができる。会社のDNAってそういうことだと思うんです。

 ――最近はコンビニのコーヒーがコーヒー店の客を奪うなど、外食産業は競争が激化している

 安部氏:こうした競争は昔から続いていて、今のように市場が縮小する中でも、新興勢力が現れて、旧態依然の社を食って伸びる。このメカニズムは変わりません。どの会社にもチャンスがあり、食われないためには、自らを変えていかねばなりません。先取りして「適応」することと、問題を発見して「対応」することが必要。吉野家も、遠い未来は牛丼を売ってないかもしれない。

 ――なんと!

 安部氏:吉野家は、レシピ、サービス、素材調達、加工、保管、流通、そして人材育成まで含めた松田瑞穂の類いまれなる発明だと思っています。今はその表現のメーンが牛丼ですが、牛丼を売り続けること自体が価値ではない。お客様の思いに応えることが第一。その結果、牛丼のシェアが減ってもかまわないんです。

☆あべ・しゅうじ=1949年9月生まれ。福岡県出身。福岡県立香椎工業高校卒業後にミュージシャンを目指して上京。72年吉野家入社。80年に吉野家は 会社更生法適用申請(87年に同手続き終了)。83年、取締役開発本部長就任。92年、代表取締役社長。2007年、吉野家HD社長に就任し、事業会社吉 野家社長は後進に譲るも、業績低迷で12年に社長に復帰。14年8月末で事業会社吉野家の社長を退任。好きな音楽はR&B、モータウン系など。