テレビのバラエティー番組などで活躍した中華の料理人・周富徳さんが今月8日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。71歳だった。周さんの名を全国的に有名にするきっかけとなったテレビ東京系の「浅草橋ヤング洋品店」で演出を務めていたテリー伊藤氏(64)は「本当に悲しい。周さんがいなかったら『料理の鉄人』など、料理人が対決する番組は生まれていなかった」と故人を惜しんだ。

 周さんは横浜・中華街生まれで、18歳で料理の道へ入り、「聘珍樓」や「赤坂璃宮」などの名店で総料理長として腕を磨き、1993年に東京・港区北青山に「広東名菜 富徳」をオープンさせた。


 同店の関係者によると「最後に店に来たのは肺炎で体調を崩す直前の昨年7月。それから今年2月まで長期入院していたせいで足腰を弱らせ車椅子生活だったため、退院後はリハビリ施設にいたのですが、体調を悪化させ再入院していました」。一人息子の志鴻さん(46)とその妻にみとられ、ひっそりと息を引き取ったという。


 店は数年前に志鴻さんに任せていた。店の関係者は、周さんについて「仕事に厳しい人だった」と口を揃える。「スピード重視。全体を見渡せる位置から指示を出すんだけど、ちょっとでも遅いと怒号が飛んでくる。ひどい時は皿が飛んできた。でもね、短気だけど怒りを後に引きずらない人だった」(調理スタッフ)

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人気「中華大戦争」生んだ周さんの面倒見


 料理を愛するプロだからこそ「ネギの青い部分を捨ててこっぴどく叱られた。周さんは“食材に捨てる部分はない”と言って、ゴミ箱にまで目を光らせる人だった」(別の調理スタッフ)。


 そんな周さんは1990年代にテレビに出始めた。そもそものきっかけは「赤坂璃宮」をテリー氏がたびたび訪れていたこと。テリー氏は「すごくおいしいからよく行ってたけど、周さんはいつも僕のテーブルまで来てくれていっぱいしゃべるんだ。その話が面白いから『一度出てもらおう』と思ったんです」。


 最初は周さんだけが番組に出ていたが、その後、弟の周富輝氏(63)や金萬福氏(59)ら多くの料理人が出演し始めた。その料理人が対決する「中華大戦争」が人気コーナーとなり、周さんの知名度は一気に上がった。


 ただ、これはテリー氏が企画したわけではなかった。「周さんはすごく面倒見がいい人で、『いい腕をした料理人がいるから彼らも出してあげて』と言ってきた。富輝さんとか金さんとかは、みんな周さんの紹介。そんな感じで出演する料理人が増えてきたから『だったら料理対決をやろう』となったんです」


「中華大戦争」が大人気となり、その後、フジテレビが「料理の鉄人」を立ち上げた。「だから料理人の対決番組は、周さんが先駆者。彼がいなかったら『料理の鉄人』も生まれてなかったと思いますよ」


 番組の収録自体は周さんも楽しんでやっていたという。「どんな注文をしても嫌な顔をしたことは一度もない。料理対決の敗者が罰ゲームで、中華鍋に乗ってスキー場を滑走したりムチャクチャやったけどね(笑い)。あの企画、オンエアは15分くらいだけど、撮影は丸1日か2日はかかる。周さんは店を休んでもやってくれた」


 番組の演出では、対決を盛り上げるため周さんの両サイドにチャイナドレスを来た女性を2人置いたことも。「レースクイーンのイメージでやったんだけど、そうしたら周さんが気に入って喜んじゃってね。撮影の合間は女性に話しかけてずっと口説いてましたね(笑い)」


 料理に対する飽くなき探究心も人一倍だった。「常々『ネオチャイニーズ』、つまり『新しい中華料理を作りたい』と言っていた。例えば“海老のマヨネーズ和え”なんて今ではよく見るメニューだけど、当時の日本では周さんしか作れる人がいなかった」。料理にささげた人生だった。