1994年は水前寺清子の365歩のマーチ、95年はCHAGE&ASKAのYAH YAH YAH、96年は水戸黄門のテーマ曲・あゝ人生に涙あり。記者が広島担当をしていた94年から96年までの間、この3曲は、それぞれの年のキャンプなどカープ練習中にBGMとして頻繁に流れていた。発案者は94年度から指揮をとった三村敏之監督。もちろん、歌詞などがいい、ということもあったが、基本的には話題作り。とにかくカープを知ってほしい。そんな願いを込めての“テーマ曲”でもあった。

 現在はカープ女子などのブームもあって観客動員も大幅にアップしている広島だが、あのころは毎年のように優勝争いをしても、スタンドは寂しい限り。当時、チームリーダーだった野村謙二郎内野手(前広島監督、現評論家)が「どうして、お客さんが入ってくれないのか」と嘆いていたことを思いだす。そんな中で三村監督は強力・赤ヘル打線を大リーグ・レッズの愛称と同じ「ビッグレッドマシン」と名づけたり、グラウンド外でもアイデアマンぶりを発揮した。

 94年3月には、こんなことを言いだした。「選手の登録名をニックネームにしたらどうだろう。西田(真二外野手=現四国アイランドリーグplus・香川監督)は“トラ”と呼ばれているから“トラ西田”とか。野村は“ケンジロー”でもいいんじゃない。球場のスコアボードにも表記してね。メンバー紹介する際に、その名前がアナウンスされれば面白いよね。何かいい名前はないかな。江藤(智内野手=現巨人コーチ)は優しい性格をしているから、仏の江藤ってどうだろう。数珠をぶらさげて登場させたりしてね」

 残念ながら、それらは構想だけで、すべて実現しなかったが、その年の公式戦開幕直前の4月7日にオリックスが仰木彬監督などの発案もあって鈴木一朗外野手(現マーリンズ)を「イチロー」、佐藤和弘外野手を「パンチ」に登録名変更。さらに7月にはダイエーの山本和範外野手が「カズ山本」に。記者が三村監督に「監督のアイデアが、よそで使われてしまいましたね」というと「そうよね。よそでやられたら、もうウチが最初にならない。それじゃあ、意味がないから、また違うのを何か考えないといけんよね」。

 笑いながら、そう答えていた三村監督。今、振り返れば、こう考えてしまう。「仏の江藤」はともかく、あの時、広島で「ケンジロー」や「トラ西田」が存在していたら、仰木監督もまねできないと思って、鈴木を「イチロー」にはしていなかったのではないだろうか、と…。ちなみに94年はパの最多安打がイチローで、セの最多安打が野村。三村監督が育てた金本知憲外野手(現阪神監督)はその年のシーズン中盤以降にレギュラーとして定着し、このニックネーム話のころは、まだまだ若手の一人でした。

 2009年11月3日、三村さんは61歳の若さで亡くなった。6年たった今でも、そのことが信じられない。野球の話はもちろん、それ以外の話もすべてが勉強になった。忘れられない指揮官だ。

(運動部デスク・山口真司)