【槙原寛己の巻】

 長嶋巨人、投手3本柱の一人にして、のちに守護神に転向。最後の完全試合投手としても知られるのが、マキさんだ。

 うなりを上げる剛速球は、当時を知る誰もが「一番速かった」と口を揃えるほど。とにかく球史に残るすごい投手には違いないのだが…。「天は二物を与えず」ということなのか「槙原はなあ、ボールを投げる才能は天才的なんだが、それ以外はまるでダメ。守備や打撃にはセンスのかけらも見られないんだから」ともよく言われた。阪神が優勝した1985年、あの甲子園球場でのバックスクリーン3連発を被弾するなど、トホホなエピソードに事欠かないのもまた、マキさんらしい。

 レーシック手術をすればそれに失敗。ハリ治療に失敗し肺に穴が空いてしまったりと、マキさんはちっとも悪くないのに、そんな不幸もついてまわった。1998年途中からストッパーに転向した後は、あまりに打ち込まれるものだから「ダメ魔神」との呼称が定着。もちろん本紙も容赦なく書きまくったことで「東スポはオレに何かうらみでもあるのかよ!」とボヤかれたこともあった。

 マキさんが現役引退後、いまだ巨人のユニホームを着ていないことについては「堀内監督の後任に星野監督の名前が挙がった際、巨人OBでは数少ない賛成コメントをしてしまったから」とも言われている。そんな“しくじり”も含め、持ち前の明るいキャラクターと、面倒見のいい性格から、後輩や報道陣にはいじられながらも慕われる存在だった。

 そんなマキさんだけど、本当なら地元・愛知の中日でプレーしていたはずだった。93年オフ、FA宣言をしたマキさんは巨人に残留。この時、長嶋監督が17本のバラを持ってマキさんの自宅を訪れて慰留した話が有名だが、その前日、長嶋監督は緊急コーチ会議を招集している。そこでは「最後は地元で野球をやりたいという槙原の気持ちを尊重し、中日に行かせてあげよう」という結論で一致。だから慰留翌日の新聞を見たコーチ一同は「あれはいったい何だったんだ…」と、ずっこけたそうだ。

 とはいえ、あの時の長嶋監督の独断がなければ、その後の完全試合もなかっただろうし、西武との日本シリーズでの完封劇もなかった。なにより後輩たちにとっても、残留は大きかったはず。そんな意味でも長嶋監督には大いに感謝している。

(運動部デスク・溝口拓也)