相撲や格闘技、なでしこジャパンがブレークする前のサッカーなどを主に担当してきた自分にとって、今でいう「美女アスリート」という響きは憧れだった。まあ、そんな取材をすることはないだろうと思っていた時、2002年ソルトレークシティー冬季五輪の担当になることが決まった。

 後輩記者に雪(ジャンプやアルペンなど)を任せ、自分は氷(主にスケート)の担当となったが、何せ未知の世界。まずは多くの選手や関係者へのあいさつ回りに奔走した。そんな中で出会ったスピードスケートの岡崎(現・安武)朋美選手はいろいろな意味で衝撃的だった。

 昔から担当している他社の記者とは違い、自分は新参者。仲良く話せるはずもないし、そもそも向こうは長野五輪で銅メダルを獲得したスーパーヒロイン。それでも何度か取材に足を運んだことと、1971年生まれの同い年ということもあって世間話もできるようになったのだが、女子選手取材というのは妙に緊張した。

 だが、岡崎選手は“敷居”を高くするようなことはしなかった。できるだけ取材に応じ、自分の言葉で丁寧に話すことを心がけてくれた。そんななかで、どうしても聞いてみたいことがあった。競技とはあまり関係のない話を聞くのが東スポ記者の宿命とはいえ、女性アスリート取材に慣れていない自分としては気が引けたのだが…。

「ところで、岡崎さんは今でも“朋ちゃん”とちゃん付けで呼ばれているけど、正直なところ、そろそろやめてほしいなとは思わない?」

 すると、岡崎選手は迷うことなくこう答えてくれた。

「ぜ~んぜん。この年でも“ちゃん付け”されるなんて、こっちからしたらありがたい話ですよ。みなさん、いったいいつまで朋ちゃんって呼んでくれるんですかね」

 ニコニコしながらこんな答えをするなんて、もはや反則に近い。この時、岡崎選手も私も30歳。20代が終わり、自分としても同世代の女性に“ちゃん付け”するのはそろそろ失礼な年なのかと思っていただけに、軽い衝撃でもあった。

 とはいえ、岡崎選手は一つだけ言葉を付け加えた。

「私たちは必死に練習して、結果だけを追い求めてやっている。だから結果が出なかった時に、変に持ち上げないでほしいんです。見た目とかじゃなく、結果を出した人を正当に評価してほしいなと」

 美人選手として国民的ヒロインになった岡崎選手だが、選手の立場からすれば競技を見てほしいという訴え。女子選手取材でちょっと浮かれていた自分が恥ずかしくなったが、この後は岡崎選手のこの言葉を自分の最低限の「約束事」とすることにした。

 結局、岡崎選手は出産して競技に復帰し、引退するまで「朋ちゃん」と呼ばれ続けた。かたや当方はオッサン記者まっしぐら。境遇の差はいかんともしがたいが、あのタイミングで岡崎選手に出会えたのは、自分にとって運が良かったことだと信じている。

(運動部デスク・瀬谷宏)