会社で高校野球の資料をあさっていると面白い雑誌を見つけた。1994年の「報知高校野球3月号」。同年のセンバツ出場32校の特集で、前年秋の関東大会を優勝してセンバツ初出場を決めた山梨学院大付のメンバーに全日本プロレスの金丸義信がいた。

 金丸はサイドスロー投手で防御率は1・67と立派。しかし、チームでは同年のドラフト3位でオリックス入りする五島裕二がエースに君臨していた。「新チーム結成以来、チームは連勝していた。それを止めたのが僕」(金丸)と実際の成績はイマイチだったとか。控え投手としてベンチ入りした甲子園では1回戦を突破したものの2回戦で敗れ、登板機会はなかった。ちなみに同大会には阪神の盗塁王・赤星憲広(愛知・大府)、広島の赤ゴジラ・嶋重宣(宮城・東北)らが出場している。

「(エースの)五島とはレベルが全く違った」と野球での限界を感じ、高校を卒業してすぐに全日プロに入門。1年半にも及ぶ下積みに耐え、96年7月6日の愛知・江南市民体育館大会でデビューする。この試合を実際に見たのだが、それは異例の初陣だった。

 ジャイアント馬場さんが健在だった当時はまだ昭和プロレスのにおいが残っており、新人は新人らしく派手な技の使用がご法度とされていた。披露できた大技といえばジャーマンやバックドロップなどの投げ技くらいだったが、金丸はなんといきなりポスト最上段からムーンサルトプレスを鮮やかに決めた。今のアラフォー世代のデビュー戦はかなり見ているが、初戦でトップロープに飛び乗ったのは金丸だけだったと記憶する。

 試合後は金丸の取材をサッサと切り上げ、馬場さんの元へ走った。「新人がトップロープから跳んだのに驚きました」と素直な感想を口にすると馬場さんは「それくらいできる子なんだよ、フフッ」。今で言う“ドヤ顔”でうれしそうに答えてくれた。金丸の突出した能力を買っていた御大が、空中戦の使用を特別に許可していたのだ。ブルペンで燃え尽きたが、甲子園球児の肩書はやはりダテではなかった。

「馬場さんに『できることはやれ』って言われていたから、トップロープを使った。当時、異例だったことは後から聞きました」と振り返る金丸は38歳。ベテランの域に達したが、馬場さんも認めた跳躍力でまだまだマット界を盛り上げてほしい。

(運動部デスク・楠崎弘樹)