名作「北斗の拳」の主人公ケンシロウによれば「常人は己の潜在能力の30%しか使えないが、北斗神拳は残りの70%も使用するのが極意」だそうだ。あくまでマンガの世界の話だが「火事場の馬鹿力」なる言葉もある。人間には秘められた力がある…と断言しても間違いないだろう。

 プロ野球の取材で、それを証明するようなシーンに遭遇したことがあった。王ダイエー1年目、1995年8月24日の西武戦(西武球場)でのこと。その日の先発は工藤公康さんだった。結果から先に言うと、8回を1失点に抑えて12勝目をマーク。この白星で通算成績は125勝54敗となり、100勝以上の投手で歴代最高勝率(6割9分8厘)となった。

 最大のピンチ…というか、最高に不可解なシーンが展開されたのはダイエー1点リードの8回だった。私の記憶が確かなら、先頭の垣内哲也を三振に仕留めたところで捕手の川越透さんがマウンドへ足を運び、工藤さんとともにベンチの様子をうかがっていた。

「ん? 交代?」

 記者席とグラウンドが離れているため詳細は分からなかったが、ひと呼吸おいてから工藤さんは続く伊東勤さんと対峙した。結果は中前打。さらに松井稼頭央にも左前打を許し、同点どころか逆転のピンチを背負った。

 再び川越さんが工藤さんのもとへ駆け寄った。と思ったら、今度はその川越さんがベンチに呼びつけられた。何か注文をつけられたのだろう。そして「公康は何を言ってるんだ」と首脳陣がカリカリしていることをマウンド上で知った工藤さんは、遠目にもハッキリと分かるぐらいキレた。

 マウンドの土をスパイクで蹴り上げてから投球動作に入った左腕は、背後にメラメラと炎が見えるぐらい怒りに満ちていた。後続に投げ込んだのオール直球。7回の時点でヘロヘロだったはずなのに球速は144キロ、146キロとぐんぐん上がり、佐々木誠さんをその日最速の148キロで中飛に、続く辻発彦さんも炎の直球で右飛に仕留めてピンチを切り抜けた。

「あの時のストレート、めちゃくちゃ速かったですよね」。後日、そう話を向けると、工藤さんは「あったあった、そんなことが」と言いながら種明かしをしてくれた。

「もともとは7回までの予定だったんだよ。でも『8回先頭(2三振の垣内)まで行ってくれ』って言われて『はい』って従ったのに、その時になってベンチを見たら知らんぷりするんだもん」。超一流と言われる選手には、理屈を超えた凄さがある。

(運動部デスク・礒崎圭介)