りえママは報道陣をけむに巻くのが得意な人だった

2014年11月13日 12時00分

 宮沢りえ(41)の母宮沢光子さんが9月23日に肝腫瘍のため、65歳で亡くなった。1991年のヘアヌード写真集、翌92年の関脇貴花田(現貴乃花親方)との婚約など、世間をアッと言わせ続けたステージママだったのは周知の通りだが、報道陣をけむに巻くのが得意な人だった。筆者も振り回された一人だった。

 92年11月、大相撲若・貴ブームの最中、突如としてりえと貴花田の婚約を発表し、2年生記者だった筆者は“張り込み担当”となった。りえママとりえが暮らす東京・広尾の超高級マンション前、中野新橋の藤島部屋の前、りえとりえママの行く先が、その後約3か月間の主な“職場”となった。
 身の回りの世話をするりえママは唯一のスポークスマンで、食材などの買い物に出かけるとき、帰宅するときがりえの行動を知る唯一の方法。機嫌を損ねないように話しかけたのを覚えている。

「りえママは現場の報道陣に対して基本的に機嫌が悪かったですからね。主役のりえの側にいるときはさらに防衛本能を全開にして杖を振り回したりするから、取材交渉などなかった。おっかないのなんの。あの鋭い目つきとダボダボのインドパンツは忘れられない」と当時一緒に取材をしていたワイドショースタッフ。同感だ。

 広尾のマンションには婚約発表前の貴花田がほぼ毎日訪れ、泊まることも多かった。それを路上で「3泊…4泊…5泊」と数えた。当時の筆者の手帳には「貴5連泊」と書かれている。取材記者は交代で、ほぼ24時間態勢。貴花田が帰らなければ、取材が終わらなかった。

 りえが移動する純白のベンツの最高級車種600SELがマンションを出たら、昼夜を問わず、後を追った。あるときは、その到着地が親友のJリーガー三浦知良・設楽りさ子夫妻のマンションで、張り込みする報道陣にキング・カズがサービスで、ベランダから4ショットを撮らせてくれたこともあった。だが、そんな成果はめったにない。

 最悪だったのは、当時りえが収録していたスペシャルドラマ「西遊記」の収録スタジオからのカーチェイスだった。午後11時前、りえのベンツがスタジオを出たので、待機していた社用車に乗り込み、追跡をスタート。

「調布を出た車は首都高速で新宿、葛西、浦安の東京ディズニーランド近くまで着いた。貴花田と落ち合うのかと車内の本紙カメラマンも腕まくりで期待したけど、結局Uターン。ベンツからは誰も降りず、広尾のマンションに到着しちゃった。約3時間、ぶっ通しだったからホント疲れたよ。記者もカメラマンもコンビニの袋に車内放尿までして頑張ったのにな」(ドライバー)

 カメラマンは「なんだよ〜」と悲鳴に似た声で、車庫に入る寸前のベンツの後部座席に向けてフラッシュをたいた。だが、車内には、りえもりえママの姿もナシ。運転手だけというオチだった。

 おそらく、これらもりえママの指示だ。正式な婚約発表はその数日後の11月27日。その2か月後に婚約解消するまで、りえママは報道陣を翻弄し続けた。筆者は張り込み取材が一段落した直後、疲労から肺が破れ(自然気胸)、戦線離脱した。

 りえ母娘と親しかったビートたけし本紙客員編集長は審査委員長を務めた1994年の「第4回東スポ映画大賞」でりえママを新人賞に決定。光子さんの死去後、本紙で「りえママにはいい面と悪い面があって、プラスマイナスすると、いい面が少し上回ったかな」と母娘関係を表現した。的を射ている。

(文化部副部長・延 一臣)