オウム裁判で思い出す恐怖と驚異の張り込み取材

2014年01月23日 12時00分

 オウム真理教の元教団幹部、平田信被告(48)の初公判が16日から始まった。判決予定の3月上旬まで集中審理が続き、一連のオウム事件は終結する。思い出すのは1995年から始まったオウム取材の日々だ。

 とにかく張り込みだった。今思えば、スポーツ紙が本格的に社会・事件のページを作り始めたのは、各社ともオウム事件が契機だった。筆者が所属していた文化社会部(現文化部)もオウム事件前までは、芸能取材を主に担っていた。

 それが前代未聞のオウム事件が勃発して以降は部員総出で取材に当たった。東京・南青山の総本部、静岡・富士宮総本部、山梨・上九一色(かみくいしき)村(当時)のサティアン(生活施設)群、その他、全国に散らばる支部、これに事件の被害者取材も加わった。

 特に重要拠点の前出3か所には毎日、記者とカメラマンが張り込んだ。今では想像もつかないだろうが、東京の都心の一等地・南青山の総本部前の交差点内の道路上には、マスコミ各社が海水浴やキャンプ用に使うパラソルとイスを設置。とはいえ、オープンカフェのような雰囲気はなく、周囲には数台のパトカーと制服警官、覆面パトカーの公安警察も常時いたため、異様な状態だった。

 約50~100人の報道陣が24時間態勢で見守る中に本紙取材班もいた。1日2~3交代制の取材シフトが組まれた。その最中の95年4月23日には村井秀夫幹部(36=当時)刺殺事件が起きた。

 村井幹部は、教団内の「科学技術省大臣」で、この1か月前、3月20日に起きた地下鉄サリン事件のサリン精製に深く関わっているとみられていた。

 村井幹部は信者、報道陣にもみくちゃにされながら総本部に入ろうとしたところ、群集に紛れ込んでいた暴力団構成員の男に刺された。一部始終を目のあたりにした本紙カメラマンが撮影した村井幹部刺殺写真はスクープとして広く知られた。

 その後、教団幹部はみな暗殺の恐怖におびえる日々に。幹部Jは屋外に出るときはヘルメットに防弾チョッキを着用するようになった。車での移動の際も、襲われたり、射殺されたりしないよう、美人信者ドライバーがハンドルを握るベンツは常に猛スピードだった。

 困ったのはそれを追いかける取材陣、つまり我々だ。Jが「今から上九に行く」となれば、社用車に飛び乗り、追跡することもしばしば。しかも、一般道・高速道路問わず、法令速度などお構いなしなものだから大変だった。もう時効だろうから明かすと…。

「高速道路ではメーターのリミッターぎりぎりでずっと警告音が鳴っていた。いつもオウムのすぐ後ろには公安警察の車が追尾していて、オウムとその公安の間に入ったときだけ、ものすごく怒られたけど、公安の人たちはこちらの仕事も分かってくれていた」と当時の東スポのドライバー。

 東京から山梨、または静岡までの突然のドライブで、しかもノンストップだから、困ることも。記者は走行中の車内で何度もコンビニのレジ袋に放尿するハメになった。

 山梨のある地域ではオウムと公安警察、東スポの各車両が、暴走族の集団に囲まれることもあった。「暴走族に囲まれるオウム車両」の写真を撮り始めた記者に、パンチパーマの若者が怒号とともに駆け寄ってきた。

「どこの新聞局だ!」

 まだ20歳にも満たないようなヤンキー青年は興奮のあまり、テレビ局と新聞社がごっちゃになったようだが、それに気を取られていたら、オウム車両はどこかへ消えていた。

(文化部デスク・延 一臣)