反権力、反権威を掲げ、タブーへの挑戦を続けた月刊誌「噂の真相」の休刊から15年、名物編集長だった岡留安則さん(享年71)が肺がんのため、1月31日、那覇市内で亡くなった。25年間の編集長、オーナー人生、その後の執筆活動を通じ“噂真ジャーナリズム”“岡留イズム”を次世代にくっきり残した。

 1979年、32歳で同誌を創刊した岡留氏が、全共闘の活動家だった過去から左翼系雑誌と呼ぶ人もいた。

 だが、実際は「“右も左も真ん中も”、政治家、警察、検察、大手企業、大手広告代理店、有名作家、出版社、マスコミ、芸能プロダクション、あらゆる権力が取材対象だった」(関係者)。

 ここ数年は週刊文春のスクープが「文春砲」として知られるが、噂の真相が標的とする対象はそれ以上に広範囲だった。毎月、書かれた業界関係者は蜂の巣をつついたような騒動になった。

「どのマスコミにも広告主、取引先などタブーは存在するが、噂の真相が何でも標的にできたのは企業広告に頼らず、実売で勝負していたから。そんな雑誌は他にはなかったから、編集者にとっては夢のような雑誌だった」(出版関係者)

 そんな編集方針だった同誌だけに、協力者のネタ元も多岐にわたり、各業界の“ガス抜き”の役割も果たした。

「内部告発のほかにも、同業者の他社告発なども多く、企業の広報、法務部が毎号気にしていましたね。出版社系雑誌ではタブーの有名作家の醜聞も出し、出版社内が『誰が漏らしたんだ!』と大騒ぎになることも。権力監視という点では政官財の記者クラブ加盟のマスコミ各社の記者が自分のメディアではできないネタを日頃のうっぷん晴らしのように供給していた」(関係者)

 一方で、元首相の買春疑惑など、訴訟も絶えなかった。有名作家名誉毀損事件で岡留氏は在宅起訴、刑事被告人となり有罪判決を受けた。検察をも標的にしていた反動とも思えたが、99年には東京高検検事長(当時)の愛人問題をスクープ。当時の朝日新聞は1面で「噂の真相によると」と書いた。2000年には、編集部に抗議に訪れた右翼団体の男2人に編集長、副編集長が襲われ、岡留氏は太ももを刺され、重傷を負った。

 権力監視の姿勢は、岡留氏と関わりのあった次世代に受け継がれている。20万部超の月刊誌第2位売上げを誇りながら、黒字休刊した同誌の復刊の話は、実はこれまでに何度も持ち上がっていた。

“岡留チルドレン”と呼ばれた同誌編集部員、元通信社記者、元実話誌編集長、週刊誌記者などの名前が取り沙汰されたが、岡留氏本人は「自分は隠居するが“3本の矢”か“7人の侍”かでやるとうまくいくと思うんだけどね」と話していた。

 岡留氏は毎晩のように姿を現していた新宿ゴールデン街のバーで、サングラス姿で様々な業界の若手の話をよく聞き、軽い口調ながら鼓舞してくれた。

 本紙も同誌のスクープを何度も後追い取材し、時には共闘し、取材対象と対峙した。岡留氏は「東スポが書けば宣伝になる」との思いから協力してくれたが、政治家も芸能人も同列平等に斬る“岡留イズム”の一端を教わったような気がする。

 休刊後、大好きだった沖縄に移住した岡留氏は飲食店を経営しながら、本紙「マンデー激論」でレギュラーコラムを執筆。米軍基地問題や政治など、鋭い批評を続けた。

 公私ともに世話になった身としては感謝しきれないが、いつの日か“岡留チルドレン”による同誌の復刊も期待したい。

(文化部副部長・延 一臣)