卓球界を変えた愛ちゃんと協会の連係プレー

2018年10月29日 12時00分

 もう20年以上も前、この会社の入社試験に臨んでいた当方は、面接で「大学時代は何をされていましたか」という質問に「山登りをやっていました」と胸を張って答えていた。自分がアウトドア派であり、厳しい環境でもたくましく生き抜いていけるということをアピールしたかったのだろうが、ここまで露骨にやるのには理由があった。

 小学生時代に学童野球をやっていたとはいえ、その後は中学、高校と卓球部。球が見えずらくなるから光が入らないようにカーテンを閉め、蒸し暑い体育館で練習をするのが当時の卓球のスタイルであり、「暗い」「地味」というイメージが付けられてしまう元凶でもあった。もちろん、卓球をやっていて楽しかったのは確かだが、周囲には自分が卓球部だったということを大々的には言いにくい時代。大学進学後は山登りを始めたのは、高校までの18年間の自己否定。そんな側面があったのは否定しない。

 前置きがかなり長くなったが、卓球というスポーツはそれだけマイナーだった。入社後、サッカーを取材することはあっても、卓球の取材に行くことはなかった。日本一を決める全日本選手権が開催されていても、だ。日本中に知られた有名選手がいたわけでもなく、世界の舞台で好勝負を演じるような実力者が揃っていたわけでもないから、取材に行ったところで大きな記事をつくることが難しい、というのが上司の判断だった。(かなり失礼な書き方で申し訳ございません)

 そんな中で「福原愛」という泣き虫な女の子が彗星のごとく現れた。あっという間にお茶の間の人気者となり、卓球が注目されるようになった。とはいえ、他社も含めて卓球専門の記者はほとんどいなかったこともあり、日本卓球協会は専門用語のレクチャーなどを目的としたメディア懇親会を開いてくれるようになった。

 当時、私はサッカーを中心に取材していたが、スポーツ担当の後輩記者から「ぜひ来てください」と誘われて、一度だけ参加したことがある。説明会などという堅苦しいことは抜きにして、みんなで卓球をやるようなほのぼのとした集まり。だが、そこには卓球経験者と非経験者が混在しており、一緒にやったらラリーは続かない。私は経験者のグループに入ったが、そこで自分の目を疑った。

 私が打ったボールを返してくれるのは「世界の松下」。そう、日本初のプロ選手でバルセロナ五輪にも出場し、先日開幕した「Tリーグ」のチェアマンを務める松下浩二さんだった。中、高でカットマンだった私にとって、カットマンとして世界を席巻した松下さんは憧れというより、雲の上のさらに上のほうにいる存在。そんな人とのラリーは驚きの連続だった。カットで返す松下さんのボールをドライブで持ち上げても全く上がらず、ボールはネットに掛かるばかり。世界の技を体感し、一人で感動していた。

 ドイツでプレーしていたこともある松下さんが、懇親会の席で話していたことは今でも鮮明に覚えている。

「愛ちゃんという注目選手が出てきて、今こそが卓球界にとって最大のチャンス。卓球がスポーツ新聞の1面に載り、いずれはサッカーのJリーグみたいに日本でプロリーグができて、スター選手がどんどん生まれる。ドイツではよくある光景だった。日本でそんなのは夢でしかないと思っていたけど、なんとなく光が見えてきたように思うのは俺だけなのかな」

 それから10年以上の年月がたち、松下さんの言葉のほとんどが現実のものとなった。世界選手権がテレビで生中継されるようになり、五輪でメダルを獲得する選手も生まれた。今や卓球はマイナースポーツとは呼べないほど世間に認知され、競技人口も増えた。先日引退を発表した愛ちゃんのおかげなのはもちろんだが、日本卓球界もチャンスを逃さずに競技の普及と発展を怠らなかった。華々しく開幕したTリーグには夢がある。そのうち、松下さんの想像をはるかに超える時代がやってくるはずだ。

(運動部デスク・瀬谷宏)