【長嶋監督の巻】

 私が東スポに入社したのは1993年の春。配属されたのは野球担当の巨人番だった。その年は第2次長嶋巨人の1年目。ミスター復帰に一茂、松井の入団ととにかく話題が盛りだくさん。新人記者の自分には何が何だか分からないまま、毎日が過ぎていった。

 当時の東スポ巨人番はキャップの松下記者に、柏原記者。自分はいわゆる「小僧」と呼ばれる3番手だった。もちろん下っ端記者に話題の中心・長嶋監督と話をする機会なんてほとんどない。

 当時は長嶋監督が何かをしゃべれば即、1面という時代。だから長嶋さんを単独でつかまえようと各社の記者は躍起となった。長嶋さんの周りには、常に人だかりができ、長嶋さんが移動すればそれこそラグビーのモールのような状態で人だかりごと移動する。最初は「なんでこんな無意味なことを…」と思っていたし、とてもじゃないけど取材どころではなかった。

 だから、そんな長嶋監督と“マンツー”になれた日のことは強烈に覚えている。あの日は夕方に大阪市内のホテルでパーティーがあり、せっかちな長嶋監督は絶対にその日のうちに帰京するはずと誰もが思っていた。となればパーティーを抜け出して先回りするしかない。普通に考えれば新大阪駅か、伊丹空港のどちらかで待つのがセオリーだが…。あえて確率の低い関西空港に行ってみると、これがバッチリはまってしまったのだ。

「おっ、東スポ。君だけか。エッヘッヘ」

 あの時の長嶋監督のニヤニヤした顔は忘れられない。その後は空港内のVIPルームに招き入れられ、お茶を勧められて「で、何だ。何が聞きたいんだ」とまたニヤニヤ。

 おかげで1週間分のネタを仕入れることができて喜んでいると、長嶋監督はその後に「そうだ、電話するところがあったんだ」とおもむろに立ち上がり、目の前で電話を始めるではないか! しかもその電話の内容が、人事がらみのネタだったから二度びっくり。

 しかもこちらに「しっかり書けよ」とばかりに目くばせまでしてくるではないか。あの時は長嶋監督のすごさに改めて驚いたのと同時に、みんなが必死になって長嶋監督を追いかけまわしているのが分かった気がした。

 あんな“ご褒美”をもらってしまったら…。それ以来、長嶋監督との「追いかけっこ」にさらに熱が入ったのは言うまでもない。

(運動部デスク・溝口拓也)