サッチーこと野村沙知代さんが昨年12月、亡くなった。テレビ各局のワイドショーやスポーツ紙は、サッチーの天敵だったミッチーこと浅香光代さんの元に押し寄せた。

 ミッチー・サッチー騒動が勃発したのは1999年のこと。訴訟合戦までに発展した争いは当時、別のセクションで担当外だったために外野から見ていたが、あまりの泥沼にヤラセか話題作りと疑っていたものだった。

 サッチーが脱税容疑で逮捕され、騒動も沈静化したかに見えたが、2010年に思わぬ形でぶり返し、記者も騒動の残り火を目の当たりにした。エモヤンこと江本孟紀氏が参院選出馬の際、ミッチーとサッチーが応援に名乗り出たのだ。

 南海時代から野村克也監督の愛弟子だったエモヤンは野村家とは家族同然の仲。一方、ミッチーとは「お姉ちゃんであり、恋人でもあり、お母さんの存在」(エモヤン)と40年来の付き合いがあった。

 公示前に行われた浅草での街頭演説でミッチーは「命を懸けて、エモヤンを応援する。日本全国どこへでも飛んでいく」と宣言したが、2日後に行われる決起集会には参加しないという。ミッチーにその理由を聞けば「“アレ”と会うのが嫌だから行かない」。“アレ”とはもちろんサッチー。さらに突っ込むと、不機嫌になって取材を打ち切ってしまった。

 これにはエモヤンも「(2人がバッティングしないよう)やりくりが難しい」と頭を抱えるばかり。結局、ミッチーは応援団長にもかかわらず、決起集会には来場しなかった。ミッチーVSサッチーは相当、根深いと痛感したものだった。

 サッチーの死去を受け、ミッチーは「仏になりましたから、手を合わせるしかない」。騒動の終結宣言と報じられたが、にわかに信じがたく、取材した記者に確認すれば、やはりサッチーとのバトルを延々と振り返り、最後まで毒ガス噴射で手厳しかったという。「ケンカするほど仲がいい」なんてことは決してない、本当の骨肉の争いだった。

(文化部デスク・小林宏隆)