この時期になると、仙台で発生した赤ちゃん誘拐事件のことを思い出す。2006年1月6日午前3時40分ごろ、宮城野区の光が丘スペルマン病院で、何者かが「火事だ!」と叫んで侵入し、生後間もない男児(生後11日)を誘拐したのだった。

 事件が明らかになった当日朝、私はレイザーラモンHGの記者発表のために目黒に向かっていたのだが、デスクから「今すぐ仙台に行ってくれ!」と緊急電話が入り、わけもわからず新幹線に飛び乗ったのである。仙台の凍てつくような寒さに震えながら、現地で取材を進めると、次第に事件の概要がつかめてきた。

 事件時、犯人は「火事だ!」と叫びながら母子のいる病室内に押し入ったという。男はマスクをしていたため、母親は救助の人と思ったようだ。そして新生児を抱きかかえると、非常口階段をつたい、あらかじめ止めてあった車に乗ってその場を去ってしまう。時間にしておよそ5分。生まれたばかりの赤ちゃんを連れ去られた両親の悲しみは察するにあまりある。

 宮城県警は仙台東署に捜査本部を設置。約300人態勢で捜査を始めたものの、捜査開始段階ではさっぱり手がかりをつかめないでいた。もちろん、私もさっぱりだった(笑い)。

「事件は、自分が警察になって犯人を捕まえるつもりで取材に当たれ」
 そう先輩記者のアドバイスを思い出し、取材を進めることにした。

 そもそも「なぜ赤ちゃんを誘拐したのか?」である。赤ちゃんでなければならなかった理由があるのだろうか。犯人は病室に寝ていた今回の被害者を無作為に連れ出している。犯人と被害者は無関係だ。だとすれば、やはり病院に対する怨恨の線が強いのではないか。そう思った。

 というのも、犯人が病室に入る前、ナースステーションで「院長と私の問題だ」と言い放っていたからだ。院長(当時)は「思い当たる節はない」と真っ向否定したものの、私は、しらみつぶしに取材にあたると、関係者からこんな“重大証言”を得られたのだった。

「犯人が言っているのは、今の院長ではなく、前の院長のことではないか。あまり評判がよくなかったんですよ。たしか医療ミスもあって訴訟沙汰を抱えていたんですよね」

 事態が動いたのは翌7日未明。犯人から身代金6150万円を要求する手紙が朝日新聞サービスセンターに届いたのだ。犯人の手紙には身代金の詳細な受け取り方までつづられていた。同午後2時には警察とメディアとの間で報道協定が結ばれる。報道協定とは人命尊重を目的に、メディア側が取材や報道範囲を制限すること。一方で警察は捜査情報を水面下でメディア側に伝えるのである。何といっても誘拐されたのは赤ちゃんだ。一刻の猶予も許されない。

 ところが、困ったことに東スポは仙台の記者クラブに入っていない。「やべえ、どうすりゃいいの」とあわてていると、警察の配慮で特別に別室を用意された。署内は物々しい雰囲気に包まれていた。捜査員からその都度渡される資料には、身代金を渡しにいく院長と犯人との生々しい会話記録がある。しかも、今まさに現在進行形のものである。緊張はいやがおうでも高まる。すると、今度は肩を落とした捜査員がやってきた。「身代金の受け渡し場所に犯人が来なかった」

 もはや万事休すか——と思いきや、8日午前5時ごろ再び犯人から「赤ちゃんを解放した」と着電。確認に追われる県警。捜査員の怒号が飛び交う中、無事に新生児を確認し、さらに犯人も逮捕となった。そしてそのまま捜査本部が会見を開き、私は降版ギリギリの本紙1面に原稿をブチこむことができたのである。

 終わったときは捜査関係者、メディア関係者ともに安堵したのは言うまでもない。2日間、ほとんど寝ずに取材した疲れで私はフラフラだったが、非常に貴重な取材現場に立ち会えたと思う。ちなみに、気になる犯行動機は怨恨ではなく、ただの借金苦。苦労してつかんだ、あの重大証言っていったい…。

 警察庁によると、1946年以降、282件目の身代金目的誘拐事件だった。

(文化部デスク・土橋裕樹)