11月23日、横浜スタジアムで「レジェンドマッチ」が開催された。権藤博氏率いる「チーム1998」と、中畑清氏が監督の「チームヨコハマ」が対戦。「チーム1998」はもちろん、横浜が38年ぶりの日本一に輝いた98年のメンバーが中心で、当時の横浜を担当していた私にとっても、感慨深いものがあった。

 私が横浜を担当したのは97年と98年。当時、書いた原稿といえば「サイパン流血事件 大魔神が猛反論」「佐々木巨大のどちんこ」「駒田やくみつるに激怒」「横浜ナインに夜のマグロ指令」「鈴木尚と三浦がnWo軍入り」「井上と電波少年なすびが共演か?」などなど、お気楽なものばかり。関連取材で「横浜ヘルスターズ」(いわゆるヘルス)というお店に行ったこともあったっけ。

 リーグ優勝を決めたビールかけでは、優勝慣れしてないためか、キンキンに冷えたビールを掛け合ってしまい(セオリーでは常温)、佐々木がカゼを引いてしまったことも今となっては懐かしい。

 そんな中から、横浜ファンでもほとんど知られていないであろううんちくを一つご紹介したい。実は「マシンガン打線」の名付け親は、本紙だったのだ。

 あれは97年3月8日、下関で行われたダイエーとのオープン戦。前年まで主砲を務めたブラッグスの退団で、当時の横浜打線は誰がどう見ても「小粒」だった。ところがこの試合、連打を重ね15安打で11点を挙げ大勝した。記者席で見ていた私は、大砲不在を皮肉るつもりで「さながら『ピストル』どころか『マシンガン』」と書いたところ…。翌9日の九州スポーツ(東京スポーツ九州版)の見出しは「これが横浜マシンガン野球」となった。

 この記事を見た球団スタッフが報道陣との雑談で話題にしてくれたようで、9日のオープン戦はなんと24安打で13点。朝刊スポーツ紙が「マシンガン打線」と書くようになったのはそれからだ。その後、あれだけ有名になるとは…当時は思いもしなかったが。

(運動部デスク・溝口拓也)