日本サッカー協会の新技術委員長に、2008年北京五輪代表監督を務めた反町康治氏(56)が就任した。

 静岡の名門・清水東高の出身。Jリーグが発足した1993年当時は横浜F(現横浜M)に所属も、プロ契約を結ばずに親会社・全日空のサラリーマン選手としてプレーした。94年からプロとなり、湘南で活躍し、97年シーズン後に引退。その後、指導者に転身し、2001年にJ2新潟の監督としてチームを初のJ1昇格に導いた。

 その功績から北京五輪出場を目指す代表監督に就任し、イビチャ・オシム氏が率いる日本代表のコーチを兼務。そこで日本屈指の司令塔として主力だったMF遠藤保仁と壮絶な“バトル”を繰り広げることになった。

 10年南アフリカW杯を目指していたA代表でオシム監督がキーマンに指名した一人が遠藤だった。MF中村俊輔、MF中村憲剛らとともにパッサーを同時起用する異例のチーム編成の中、指揮官が気にかけていたのは遠藤の運動量。“走るサッカー”がテーマのオシムジャパンが躍進するためには卓越した技術を持つ遠藤が不可欠ながらも、少し動きの量が足りないように映っていたようだ。

 そこでオシム監督が反町コーチに出した“特命”が「とにかく遠藤を走らせること」だった。そこで練習中から「ヤット(遠藤の愛称)、そこを追いかけろ!」「ボールに寄せろ!」「早く戻れ!」などと、とにかく遠藤を走らせるように指示を出し続けた。反町コーチは当時「それが俺の仕事だから」と手を緩めることはなかった。

 ただ、毎回「走れ」とばかり言われる遠藤はときにうんざりした様子も見せ、さすがに「しつこいんですよ。走ってますから」と“反発”するようなこともあった。特にチーム内では確固たる地位を築いていた遠藤だけに、戦術的な指示ではない“指導”に複雑な思いはあっただろう。それだけに2人の間には微妙な雰囲気が漂うこともあったようだ。

 反町コーチは07年の夏に五輪代表に専念するため、A代表から離れ、オシム監督も同年11月に脳梗塞を患って無念の退任。オシムジャパンの“完成形”は見られなかったものの、その後、遠藤は長い間、日本代表の主力として活躍した。反町監督の“指導”が、その一因となったのは間違いないだろう。

 嫌われ役に徹してでもチーム強化のために尽力してきた反町委員長は今後、日本代表をどんな方向に導いていくのか。

(運動部デスク・三浦憲太郎)