野村克也さんが亡くなってひと月以上がたったが、まだ信じられないでいる。上司とともに野村さん(以降、監督と書かせていただく)のお顔を拝見したにもかかわらずだ。あの穏やかな表情。今にもムクッと起きて「なんだ、お前か…何しにきたんや?」とでも言いだしそうなほど安らかだった。

 今も東京ドームの記者室からサロンへの扉を開ければ、テレビ脇のテーブルに監督が座っているような錯覚を覚えるし、携帯に電話したら、ひょっとして「あい…」と出てくださるんじゃないかと思う時もある。内心、受け入れたくないのだろう。でも、まだ信じられないのが実感だ。

 野村楽天2年目から解任までの3年間を担当した。結果的に、東スポ最後のノムさん番となった。追悼号では歴代の担当とともに、監督との思い出を書かせていただいたが正直、語りつくせない。ただ、それは監督を担当した、どの社の記者も一緒だと思うので、ウチらしい、ほっこり(?)エピソードを書かせていただこうと思う。

 それは仙台で監督と食事の待ち合わせをした時のことだった。住んでいたホテルにお迎えに上がりましょうか?と聞いたが「いいよ。店の前にいてくれ」。しかもマネジャーは帯同せず一人で向かうという。なんとなく心配だったが、何度聞いても「いいよ」と言うので、上司と店の前で待つことにした。

 レストランの場所はホテルから約1キロ弱の距離だが、東北一の歓楽街、仙台・国分町のメインストリート付近とあって、ごった返す人波を蹴散らすように店前にゆっくりと横づけされるタクシーをじっと待った。しかし、約束の時間になってもそれらしい車は現れない。

 なんとなくソワソワしていると、遠くで何やらザワザワ。時にキャーキャーと歓声まで交ざっている。「まさか…いやいや、そんなはずでは」と、ひとブロック先の角を曲がって声の方に近づくと、ジャケットにスラックス姿の監督が一人、暗がりの向こうからゆっくりと歩いてくるではないか。

 そこはメインストリートの一本隣ではあるものの、多くの飲食店や風俗店も軒を連ねる通り。ちょうど監督が歩いていたのはソープランドの前だった。猛ダッシュで向かった私は思わず「監督、なに歩いて来てるんですか!?」と突っ込んでしまったが、監督は平然と「何って、近いからよぉ」。仙台で試合のない日は、昼にホテル近くにあった百貨店内のテーラーまで徒歩で通ってはいたが、夜の歓楽街まで歩いてこられるとは…。

 ただ「さすが監督」だったのは、周囲の人たちが近くまで寄ってくるものの、握手などの接触まで至らず、自然と「道」ができていたこと。別に目で威圧していたわけでも“エア電話”していたわけでもないのに、だ。これも、監督から醸し出されるオーラが“圧倒した”のだろう。

 亡くなられて1か月。監督を悼むネット記事も徐々に少なくなり、寂しい思いもある。またこの欄で監督との思い出を記したいと思う。

(運動部主任・佐藤浩一)