ナゴヤ球場に衝撃 愛知大学・岩瀬仁紀の豪速球

2017年08月21日 15時16分

 今から20年以上前、中日の本拠地としてはナゴヤ球場最後の年となる1996年の話。試合開始前に恒例のスピードガンコンテストが行われていた。一般応募で選ばれた人たちがマウンドから投げる様子を自分は記者席からボーッと眺めていたのだが、1人の若者の投球にド肝を抜かれた。左腕から投げ込まれたボールは何と140キロ近い球速を記録。プロ顔負けの豪速球に球場内はどよめきに包まれた。

 

「キャッチボールも何もしてなくて、いきなり140キロ近いボールを投げたでしょ。そんなこと普通はできないよ」。一塁側ブルペンにいた早川投手コーチ(現・楽天副会長補佐)もこれにはビックリ。すぐにそのサウスポーの素性を確かめに走った。「愛知大学の岩瀬仁紀——」。そう、この時の豪速球左腕こそ、後にプロ野球史上最高のリリーフ投手となる岩瀬だった。

 

 NTT東海を経て、98年のドラフト会議で2位で指名(逆指名)されて中日に入団した岩瀬は、1年目の99年からフル回転で11年ぶりのリーグ優勝に貢献。その後の活躍はご存じの通りで、プロ野球最多登板(953試合)、プロ野球最多セーブ(404)、15年連続シーズン50試合登板など数々の大記録を打ち立てた(記録は8月21日現在)。

 

 だが、記録よりもすごいのが登板するのはいつも試合終盤の最もしんどい場面だったということだ。松井、清原、高橋由、マルティネス、江藤…。特に星野監督時代は史上最強と呼ばれていた長嶋ジャイアンツのクリーンアップ登場という場面でいつも投入されていた。

 

「宣銅烈もギャラードも最多セーブを取れたのは岩瀬のおかげだよ」。当時の星野監督はよくこう言っていたが、まさしくその通りで、2008年までドラ番をやっていた自分にとっては、取材した中日の勝ち星のほとんどに岩瀬が関係していたような印象が残っている。

 

 2年前の6月、取材に訪れたナゴヤ球場で数年ぶりに岩瀬と会った。実はこの年(15年)は岩瀬の野球人生の中で唯一、一軍登板のなかった年であった。「病院に行っても詳しい痛みの原因がわからない。よくなったと思ってもすぐにまた痛くなってしまう」

 

 左ヒジ故障の苦しみを打ち明けてくれたが、それでも最後には「またナゴヤドームで投げられるように絶対に治しますよ」と前向きな言葉で締めくくってくれた。キャッチボールをせずに140キロの速球を投げ込むことができた強靱な肉体もさることながら、絶対に諦めない不屈の闘志。それこそが鉄人左腕をここまで支えてきたものだと思う。

 

 6月の月間MVPに輝くなど今年、完全復活を果たした岩瀬だが、20日の阪神戦では決勝点を奪われて今季6敗目。試合後、再調整のため二軍で調整することが決まった。42歳という年齢もあって、何かあればすぐに引退の2文字と結びつけられてしまうが、ドラゴンズ復活のためにはまだまだレジェンド左腕の働きが必要。今季も、そして来季も、背番号「13」がナゴヤドームのマウンドで躍動する姿を期待している。

 

(中京編集部長・宮本泰春)