Jリーグ初代王者のV川崎(現J2東京V)で活躍したGKの藤川孝幸さんが胃がんのため、死去した。56歳だった。現役時代に新人だった記者の取材にも気さくに応じてくれる〝お兄さん〟的な存在で食事にも誘っていただいた。選手たちからも慕われていて「困ったときは藤川さん」と言われたほど、地元出身者らしく各方面に幅広い人脈を持っていた。

 そんな藤川さんはPKストップを得意とし〝職人〟と呼ばれた一方、キックが不得手だった。1993年、当時の松木安太郎監督は「藤川はボールを投げればハーフラインまで届く」としていたが、藤川さんは苦手を克服するために空手道場に通い始め、キック力アップなどに乗り出した。わずかな期間でキック精度が飛躍的に高まると同時に、チームメートからは「サッカーよりも熱心に練習している」と言われるほど空手にのめり込んだ。取材をしていても「サッカー選手の蹴りは空手2段に相当する」などと、なぜか空手の講義になることも多く、ときには即席レッスンに発展することもあった。

 また、GKの地位向上にも取り組んだ。V川崎時代、主にセカンドGKだった藤川さん。複数のポジションがあり途中交代での投入も多いフィールド選手と違って、GKは先発のアクシデントなどがない限りなかなか出番がない。それでも試合出場の準備は先発組と同じようにしなければならないなどとし、クラブ側に試合に出場した選手だけがもらえる出場給に相当する〝特別GK手当〟を認めさせた。

 ピッチ外での活動も活発で、元日本代表DF都並敏史とラジオの冠番組を持ち、軽妙なトークでチーム内外の裏話を明かしてくれた。番組内でちょっと怪しげな話が出た際、クラブハウスで話を聞くと「まあ、そこは掘り下げるなよ。誰も気がついていないんだから。わかる人がわかればいいだよ」とうまくかわされたこともあった。

 95年に現役を引退し、GKコーチに転身した後も、何かと面倒を見てくれた。神戸や仙台でコーチとして活動しているときに、藤川さんに連絡し「どこかおいしいお店を紹介してください」と頼むと、料理の注文から予約まで完璧なセッティングをしてくれた。偶然、新幹線車中であったときも、お菓子やジュースなど、大量に〝差し入れ〟してくれるなど、大変お世話になった。

 末期の胃がんを公表後、今年5月26日のJ2東京V—愛媛戦の前座として行われたクラブOBによる「藤川孝幸 激励マッチ」で「お、三浦じゃないか」と声をかけてもらったが、これが最後の対面となった。行動的で面倒見の良かった頼る兄貴分。ご冥福をお祈りします。

(運動部デスク・三浦憲太郎)