森田剛と再婚で思い出す「りえフィーバー」

2018年03月29日 12時00分

 宮沢りえ(44)がV6森田剛(39)と3月16日、再婚した。交際期間1年半、宮沢が前夫との間にもうけた長女(8)は森田を「パパ」と呼ぶまでになり、同居を始めたことなど、幸せな私生活がスタートしたことは何よりだ。

 りえといえば、18歳でヘアヌード写真集「Santa Fe」(1991年)発売と発行部数155万部の世界記録の衝撃、さらには現在、角界を騒がせている貴乃花親方(45=当時、関脇・貴花田)との92年の電撃婚約、2か月後の破局と、当時のビッグニュースの主役だったのが忘れられない。

 当欄では、りえの母・宮沢光子さんが3年前の9月、65歳で亡くなった直後に一連の騒動を書いたが、今、もう一度、当時の秘話とともに振り返りたい。

 りえは11歳で「週刊セブンティーン」のモデル、「キットカット」CMに出演。14歳のとき「三井のリハウス」のCMで初代リハウスガール“白鳥麗子”役の美少女として注目された。

 いずれも“ステージママ”といわれた光子さんの手腕によるもので、最初に世間をアッと言わせたのは17歳時のカレンダーでいきなり「ふんどし姿」を披露したことだった。

 当時を知る芸能プロ関係者は「その前年に、りえより5歳年上の武田久美子が貝殻ビキニの写真集を出していますが、当時のアイドルがふんどし姿でお尻をほぼ丸出しにしたインパクトはすごかった」と振り返る。

 当時、りえが2作目の主演ドラマ「いつも誰かに恋してるッ」(フジテレビ系)で語っていたセリフ「ぶっとびー」は流行語となり、文字通り、ぶっ飛んだアイドルとして“何をしでかすかわからない”というドキドキ感を世間に植えつけた。現在、バブル女芸人・平野ノラが驚きの意味で使う「ぶっとび〜」は宮沢が元祖で、最上級が「おったまげ〜」なのだ。

 りえは91年4月に18歳となり、写真家篠山紀信氏撮影のヘアヌード写真集「Santa Fe」の極秘撮影を同年5月に米国・サンタフェで行った。

「のちに篠山氏が明かしましたが、りえママは篠山氏に唯一、条件を出していた。『もし、情報が漏れたらその時点でこの話は終わり』と。だから篠山氏は出版元を大手ではない朝日出版社に決め、発売1か月前に読売新聞、朝日新聞で全面広告を出すまで一切、極秘扱いだった」(出版関係者)

 その衝撃はすさまじく、老若男女が驚き、発売日には全国の書店に長蛇の列ができ、その熱狂をワイドショーが生中継した。

 りえフィーバーは19歳となった翌92年から93年に頂点を迎える。貴花田との婚約、年をまたいで2か月後の破局だ。

 当時の本紙を開くと、婚約発表の2週間後には「りえ仕事続行で危機」をスクープ。貴花田は九州場所を終えたその足でりえ宅に5連泊したが、それは「りえは引退させないと気持ちが変わったりえママを説得するためだった」とも報じた。

 2年生記者だった筆者は“張り込み担当”で、1日2交代制で同僚記者と連日、貴・りえを追った。りえの東京・広尾のマンション前、中野新橋の藤島部屋前、りえ母子の行く先が、主な職場だった。

 唯一のスポークスマンだった光子さんは、張り込む報道陣に対し、常に機嫌が悪く、りえを守るという防衛本能からか、杖を振り回すなど、攻撃的で、2人の現状を話すことはなかった。

 ワイドショー関係者は「りえママは2009年にりえがハワイ在住の日本人実業家と結婚するときも大反対。亡くなる数年前にマネジメントを降りるまで、りえを一流でいさせることが生きがいで、そのためだったら何でもやる人だった」と語る。

 りえは光子さん死去の際「生きるということの美しさと、すさまじさと、その価値を教えてもらいました」と独特のコメントを出したが、大人になったりえの決断の末の再婚だけに、今度は幸せになってもらいたいものだ。

(文化部副部長・延 一臣)