1月6日午前4時、会社からの電話で叩き起こされた。「星野さんが亡くなった——」。まさかの知らせにしばらく声が出なかった。燃える男・星野仙一氏の突然の訃報。あれから10日ほどたつが、いまだにショックを引きずっている。きっと“星野監督”と関わったことのある人たちは皆、同じ気持ちなのだと思う。

 1996年から2001年まで中日第2次監督時代と2008年の北京五輪での星野ジャパンを取材したが、星野監督には何度か怒られた。おそらく歴代の星野番の中でも自分ほど怒られた記者はいないのではないか。中でも印象に残っているのが2000年の10月のこと。「お前は二度とオレの前に姿を見せるな!」。ある記事がきっかけで完全取材拒否となってしまった。秋季キャンプの取材に行っても近づくことすらできない。「オレの30メートル以内に近づくな!」。遠くから自分の姿を見つけると獅子の咆哮のような星野監督の怒鳴り声が飛んできた。

 1か月がたち、2か月が過ぎても星野監督の怒りが解けることはなかった。意を決して星野監督の自宅へ向かった。だが玄関先で「30メートル!」と言われて終わり。次の日、星野監督の自宅から30メートル離れた場所で待っていた。迎えの車に乗り込む星野監督に向かって「おはようございます!」と30メートル先から叫んだが反応はなかった。だが、自分の横を車が通り過ぎていくその瞬間、車内にいた星野監督は笑っていた(ような気がした)。数日後、ようやく取材禁止が解かれた。年が明けて2001年になっていた。

 取材拒否の発端となったのは週刊誌に書かれた星野監督のゴシップネタについての直撃記事だった。これは東スポの一面を飾ったのだが、時期が悪かった。長嶋巨人と王ダイエーによる日本シリーズの真っただ中。「ミスターと王さんが戦ってるときに…」。取材ができるようになった後、改めて星野監督から叱られた。静かな口調だった。長嶋さんと王さんは日本プロ野球界にとっても星野監督にとっても特別な人である。その2人が日本一をかけて戦うON決戦。日本中が注目している大イベントが行われているだけにスポーツ紙ならもう少し配慮してほしかったというのが星野監督の気持ちだった。

 あの取材拒否の時期は本当によく怒鳴られていたなあ、と思い返すことがある。だが、不思議なことに懐かしくは感じても嫌な思い出ではないのである。昨年12月に大阪で星野氏の殿堂入りを祝う会が開かれたが、そのときには中日OBや関係者、当時の中日担当記者もみんな集まった。「星野さんが監督をやっていたときは大変だったけど、なんだかんだ面白かったよな」。誰もが同じことを口にした。

「お前はオレから30メートル離れとけ!」。もう二度と星野監督から怒鳴られることはない。そう思うとたまらなくさびしい気持ちになってしまうのである。

(中京編集部長・宮本泰春)