【落合博満の巻】

 第2期長嶋巨人の4番打者といえば、62代目の松井秀喜、64代目の清原和博…。そして60代目の落合博満だろう。

 1993年のシーズン終了後、中日から巨人へFA移籍。94年の日本一、96年のリーグ優勝に4番打者として貢献したが、96年のオフ、今度はFAで清原を獲得するために、追い出されるようにクビにされた。あの時の退団騒動「落合川根町籠城事件」には、今でも強い印象が残っている。

 当時の球団フロントは、清原獲得を進める一方、清原と同じ一塁手でポジションがかぶる落合さんをほったらかし。「落合解雇へ」との報道が飛び交う中、ついに落合さんがブチ切れた。「自分から辞めることはない。巨人以外でもいい。でも待たせるのは失礼じゃないか!」と、何の連絡もしてこない球団フロントを痛烈に批判。そのまま静岡・川根町の知人宅に家族を引き連れて移動すると、約1週間にわたって球団との接触を断つという“徹底抗戦”のスタンスを取ったのだ。

 それだけではない。落合さんは携帯電話の電波も届かない温泉街に、スポーツ紙の数人の記者たちを囲い込むと、そこから新聞を通じて球団に一方的なメッセージを送るという作戦に出た。

 自分もそんな“落合軍団”の中の一員で、数日間は落合一家と行動をともにした。遊園地にいったり温泉にいったり、当時9歳だった長男の福嗣くんと楽しく遊んだり…。その合間に記者会見。移動する際は週刊誌の記者からクルマで逃げる方法を一緒に考え「お前がおとりになれ」とか話し合った。知人宅の2階和室で行われた「戦いごっこ」で、小学生離れしたパワーの福嗣くんに愛用のメガネを破壊されたのも、今ではいい思い出だ。

 だが、そんな抵抗もむなしく、落合さんは巨人をクビになった。残念だったのは最後の最後で落合さんに裏切られたこと。球団フロントとの「落としどころ」がまとまったのか、落合さんはそれまでずっと行動をともにしていた“落合軍団”を裏切り、黙って川根町から帰京し退団会見に臨んだ。そうして「2億円」とも言われた功労金を手に、巨人を去っていった。

 あれほどビジネスライクに物事を考えられる人も、そうはいないのではないか。中日GMとしてのコストカッターぶりを発揮している落合さんの言動に触れるたび、あの川根町での日々を思い出す。

(運動部デスク・溝口拓也)