飯野賢治さんはゲーム界の風雲児だった

2015年01月22日 12時00分

 1990年代に「Dの食卓」をはじめとする数々の伝説的ソフトを世に送り出したゲームクリエーターの飯野賢治さん。その飯野さんが42歳という若さで亡くなってから、まもなく丸2年になる。

 飯野さんは“売れ線”を狙ったゲームを開発する単なるヒットメーカーとは異なり、次から次へと画期的(というよりも実験的)なゲームを作り続けていた。

 例えば、「エネミー・ゼロ」(96年)は、襲い掛かってくる敵を倒しながら物語を進めていくアクションアドベンチャーゲームだが、なんとその敵が透明で姿が全く見えない。透明な敵とどうやって戦うのかといえば、敵が近づくとセンサーが反応して音が鳴るので、その音を頼りにして一見何もいないような空間に向かって攻撃するのだ。あまりの難易度の高さに、実のところ記者はラストまでクリアできなかった。

 また「リアル・サウンド〜風のリグレット〜」(97年)に至っては、ゲーム画面が真っ暗。暗くて見づらいのではない。映像が一切なく、音だけでプレーするという超アバンギャルドなゲームなのだ。

 とんでもないのはゲーム作品そのものだけではない。前出の「エネミー・ゼロ」では、製作発表会でゲーム史上に残る大事件を起こしている。当初「エネミー・ゼロ」は、ソニーのプレイステーション用ソフトとして発売される予定になっていた。その製作発表会が行われたのもソニー主催による「プレイステーションエキスポ」の会場だ。

 ところがこの発表の最中に、スクリーンに映っていたプレイステーションのロゴマークが、いきなり当時のライバル機だったセガサターンのロゴに変わり、「プレステではなくサターンで出す」と宣言されたのである。その場にいた全員がド肝を抜かれたこのおきて破りともいうべき出来事は、“エネミー・ゼロ事件”としてゲーム業界を大きく揺るがした。

 飯野さんには、一度だけインタビューをしたことがある。巨漢で眼光鋭い飯野さんを目の前にすると、その威圧感に圧倒されそうになったが、いざ話をしてみると実にクールなジェントルマンで、こちらの突っ込んだ質問にもひとつずつ丁寧に答えてくれた。ゲームの発表会などを除けば、じっくりとお話しできたのはこのときだけだが、音楽好きでも知られる飯野さんの姿はさまざまなアーティストのライブ会場の客席で何度もお見かけしたものだ。

 2000年代後半には、いち早くiPhone(アイフォーン)用のゲームアプリを手掛けていた飯野さん。08年リリースのアプリ「newtonica」は日本のAppStoreでランキング1位を記録しており、もしご健在だったら、スマホ全盛時代の今、きっとあの「パズドラ」をも凌駕するようなすごいゲームアプリを開発してくれたに違いない。

 ちなみに我が家では、「リアルサウンド」の完成発表会で報道陣に配られた風鈴が、いまだに涼しげな音を奏でている。ゲームの作中でも使われたその響きを耳にするたびに、記者は飯野さんのことを思い浮かべてしまうのだった。

(文化部デスク・井上達也)