女の扱いもスーパーだったヨハン・クライフ

2016年04月28日 12時00分

 ヨハン・クライフが死去してから1か月が過ぎた。その時はあまり実感がなかったが、書店のスポーツ専門誌のコーナーに「追悼ヨハン・クライフ」という特別号が並んでいるのを見て、ああ本当に死んだんだなあ…とちょっとしんみりした気分になった。

 よくサッカー史上最高の選手は誰か?というテーマで論争がある。古くはディ・ステファノ、ペレ、さらにクライフ、マラドーナという名前が並び、たいがい不毛な議論になるものだ。

 しかし、最もサッカー界に大きな影響を与えた人物は誰か?ということなら、ほとんどの人が「ヨハン・クライフ」の名前を挙げることだろう。彼の登場によってサッカーが進化し、多様化していったのは疑問の余地がない。偉大な選手であり、クリエーターでもあった。

 そんな彼を一度だけ取材する機会があった。1992年のトヨタカップ(クラブワールドカップの前身)でバルセロナの監督として来日した時のことだ。このころ欧州メディアは試合そっちのけでクライフの動向に注目していた。

 当時すでにクライフが作り出した、ショートパス主体のポゼッションサッカーは欧州を席巻しつつあった。その一方でクラブ内には大きな問題を抱えていた。クライフはバルセロナのヌニェス会長(当時)との対立が原因で監督を解任されるのではないか、とみられていたのだ。

 このころ、欧州のクラブにとってはトヨタカップの勝敗自体、価値はなかったが、クライフ解任の噂のおかげで大挙して欧州メディアが押し寄せた。そこで本紙も女性通訳を雇って、監督解任問題についての取材を敢行したのだ。

 確か、国立競技場で行われた前日練習直後だったと思う。選手を残して引き揚げるクライフに解任の噂を直撃しようとした、その時である。クライフは「あっちに行け」とばかりに記者を軽く押しのけたかと思うと、次の瞬間、女性通訳(若くて結構美人だった)の肩にスッと手を置き、並んで歩きだしたのだ。

 しかも、女性通訳の顔をじっと見つめながら、語りかけるように…。その光景は男である自分が見てもホレボレするようなスマートさであった。女性通訳がメロメロになったのは言うまでもない。直後「何をしゃべっていたのか覚えてません」と少女のように顔を真っ赤にしていたものである。偉大なるスターは女の扱いもスーパーなのであった。

 この話には後日談がある。この光景を見ていたスペイン人記者と懇意になり、バルセロナの内部情報を教えてもらえることになったのだ。おかげで「クライフ監督留任」の情報を世界に先駆けて発信することができたのだった。

(編集顧問・原口典彰)