手倉森ジャパンが1月のU—23アジア選手権で優勝し、今夏のリオ五輪の出場権を獲得したことで、日本サッカー界では「オーバーエージ(OA)」がホットワードだ。五輪サッカーの出場資格は「五輪開催年前年の12月31日時点で23歳以下の選手」だが、同大会はこの年齢制限に適合しない選手でも各チーム3人を上限として登録可能。1996年アトランタ大会で28年ぶりの五輪出場決定以降、2000年シドニー、04年アテネ、08年北京、12年ロンドンと過去5大会連続で出場を決めているが、いずれもOA問題が五輪開催年の上半期の話題となっていた。

 OA枠を使用しなかったアトランタ、北京はともに1次リーグ敗退とはいえ、アトランタは「マイアミの奇跡」を演じる大健闘で、3戦全敗の北京とは内容が大きく異なる。使用したシドニー、アテネ、ロンドンはそれぞれ8強、1次リーグ敗退、4位と結果はバラバラ。つまり「使用=勝利」といったわかりやすい方程式があるわけではない。これが、毎回議論になる理由なのだろう。

 一つだけ言えるのは、OA枠で加わった選手はチームに大きな影響をもたらしたということ。ロンドンのDF吉田麻也(27=サウサンプトン)やDF徳永悠平(32=FC東京)は4強の原動力となった。アテネのMF小野伸二(36=札幌)は本大会で勝てなかったものの、チームに“化学反応”を起こしたことで、当時チームメートだった闘莉王や大久保嘉人、阿部勇樹といった選手たちを後の日本代表の主力に押し上げた。

 そんななか「俺はあまり力になれなかったな」と振り返った男がいる。シドニー大会に出場した三浦淳宏(現・淳寛)氏だ。

「アツ」の愛称で親しまれた三浦氏は、1998年に惜しまれつつ解散した横浜フリューゲルスの主力メンバー。その後移籍した横浜M時代、当時A代表と五輪代表監督を兼任していたフィリップ・トルシエ監督からOA枠で招集された。本職は左MFだが、攻撃的ポジションならどこでもできたため、大いに期待された。

 本大会でも1次リーグ初戦の南アフリカ戦こそ出場機会はなかったが、同2戦のスロバキア戦と同3戦のブラジル戦は先発フル出場し、PK負けを喫した準々決勝の米国戦では後半途中からピッチに立った。貢献度は高かったはずだが、本人は「全然ダメだった。OA枠を一つムダにしてしまった」と落ち込んでいた。

 一緒にOA枠で出場したGK楢崎正剛、森岡隆三はともに守備の要として活躍。「彼らと比べると、俺は何もしていない。助っ人にならなきゃいけなかったのに、ヒデ(中田英寿)や(中村)俊輔を助けてあげられなかった。最後なんか練習もサブ組だったし…」と自身の働きに満足することはなかった。

「これからOAで五輪に出る選手は、俺よりもはるかに優れたユーティリティーさを持つか、俺よりもすごい武器を持ってほしい」と強く訴えて大会を後にしたが、三浦氏はその後「ブレ球のアツ」と異名をとるほどのFKの名手に成長。A代表でもジーコジャパンではチームのまとめ役となり、若手選手から絶大な信頼を得た。OAの経験はムダではなかったわけで、その後の日本サッカー界の発展に大きく貢献した選手の一人であることは間違いない。

 毎回ドラマが生まれる日本のOA問題。アツの言葉の重さをもう一度かみしめ、成り行きを見守りたい。

(運動部デスク・瀬谷宏)