プロフィール
須山浩継(すやまひろつぐ)
1963年広島県出身。大学卒業後、5年間のサラリーマン生活の後に「趣味で食えたらラッキー」と、プロレス&格闘技を主に取材対象とするフリーライターに。 プロレスに関してはもっぱらインディー系と女子が専門分野で、メジャー団体や選手の取材経験は非常に少ない特殊マスコミ。 現在はサムライTVの怪番組「インディーのお仕事」の企画構成、大日本プロレス中継の解説などを担当。




2019年1月
« 2月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  



空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス①「はい、女子プロレスです!」
2011年05月02日

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

全日本女子プロレス(全女)が解散して早いもので6年が過ぎました。今まで様々なプロレス団体を取材してきましたが、この全女は他に比べるものが無いような不思議で、最高に面白い団体でした。そこで今回からそんな全女の思い出話を書いていきたいと思います。

日本の女子プロレスは全女によってスタートしたと考えている方が多いと思いますが、力道山が日本にプロレスを輸入した少し後に、ボードビリアンのショパン&パンの猪狩兄弟プロデュースによるガーター争奪戦が、日本の女子プロレスのスタートと言われています。昭和30年代にはアメリカから選手を招聘して、蔵前国技館で3日にわたって興行を開催するほど人気があり、一時は日本各地で複数の女子団体が活動していたそうです。

ちなみに全女の旗揚げは昭和43年。当時、日本で最大の女子団体だった、日本女子プロレスからの独立という形でのスタートでした。旗揚げの中心になったのは全女解散まで経営と運営の指揮を執った松永4兄弟。旗揚げ後は「暴力団の資金源になっている」というデマによって、公共の体育館を借りることができずキャバレー回りを余儀なくされる苦しい時代もありましたが、やがてフジテレビによる全国放送がスタート。ビューティ・ペアやクラッシュ・ギャルズをはじめとするスター選手を次々と世に送り出します。

前述したように全女は決して日本における女子プロレスの元祖ではありませんが、この団体が我が国に女子プロレスというジャンルを根付かせたことは疑うべくもありません。世界中に女子のプロレス選手は存在しますが、女子のみの団体や興行が半世紀以上にわたって途切れることなく継続しているのは日本だけ。もしも全女という団体が存在しなければ、どこかで女子プロレスというジャンルは途絶えていたと思います。

そんな全女ですから「我こそは女子プロレス!」という意識は強烈でした。選手はもちろんのことスタッフもです。そんな強烈な自意識を否が応でも感じさせられたのが、全女に電話をかけた時でした。さすがに若いスタッフが電話に出た時は、「はい、全日本女子プロレスです」と、ごくごく常識的な受け答えなのですが、松永兄弟をはじめとする古株のスタッフは電話口でこう答えるのです。

「はい、女子プロレスです」

おそらく力道山時代の日本プロレスでさえも、「はい、プロレスです」なんて応答はしなかったと思います。たしかに女子プロレスといえば全女だけの時代はありました。しかし他に女子団体ができた後も、全女の古株スタッフたちは「はい、女子プロレスです」と言って電話を取り続けたのです。もちろんビジネスマナーとしては正しくないのですが、私はその応対を聞くたびに「すげえなぁ・・・」と妙な感動を覚えたものでした。

そんな全日本女子プロレスの会場に私がひんぱんに足を運ぶようになったのは、クラッシュ・ギャルズのブームが始まる1年ほど前、私が大学生の時のことでした。そして私は初めて足を運んだ全女の会場の外で、信じられないような光景を目にすることになるのでした。



東スポ動画
注目コンテンツ
予選ステージは7月スタート!

ビートたけし本紙客員編集長が審査委員長の独自の映画賞!

日本マット界の隆盛、発展を祈念し、東スポが制定したプロレス大賞です。

開催3場の全36レース(2場開催の場合は全24レース)の馬柱を完全掲載!