プロフィール
須山浩継(すやまひろつぐ)
1963年広島県出身。大学卒業後、5年間のサラリーマン生活の後に「趣味で食えたらラッキー」と、プロレス&格闘技を主に取材対象とするフリーライターに。 プロレスに関してはもっぱらインディー系と女子が専門分野で、メジャー団体や選手の取材経験は非常に少ない特殊マスコミ。 現在はサムライTVの怪番組「インディーのお仕事」の企画構成、大日本プロレス中継の解説などを担当。




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グレート小鹿社長に聞いた伝説(後篇)
2011年02月06日

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鬼より怖い力道山がアメリカ遠征でしばらく不在となったのをこれ幸いと、プロレスラーは出入り禁止だったリキパレスのボウリング場に繰り出した、豊登を筆頭とする日本プロレス精鋭の面々。その場には居合わせなかったものの、当時は新人レスラーだったグレート小鹿社長から聞いた、この時に起きた信じがたいエピソードとは?

さて本題に入る前に、まずはこの話の主人公となる豊登について説明しておく必要があるでしょう。大相撲からプロレス入りした豊登は力士時代からの武器であった怪力で、力道山のタッグパートナーとして活躍。力道山の死後には日本プロレスの社長とともに、エースの座も引き継ぎました。ただ、異常なまでのギャンブル好きで金銭トラブルが絶えず、最終的には日本プロレスを追放されてしまい、レスラーとしても本当の意味での時代を築くことはできませんでした。

その豊登、日本プロレス史上でもパワーに関しては最強という声も多い選手です。決して上背には恵まれていなかったのですが、ベンチプレスでは200キロ以上を当たり前のように数回挙げていたという話も聞きますし、パワーリフティングに転向していれば世界大会も狙えたとも言われています。そんな豊登、初めてのボウリングをスタートする前に、こんな言葉を口にしたそうです。

「これくらいの目方の球なら転がすよりも、放り投げてあのでかいトックリ(ピン?)を倒した方がいいだろう」

一度でもボウリングをやったことがある方ならばわかるでしょうが、どんな力自慢であったとしても、ボウリングの球をピンまでノーバウンドで放り投げるのは物理的に不可能です。当然、同行したレスラーたちも「いくら何でもそりゃ無理だ」と言います。しかし無理と言われれば余計に意地になるのが昭和のプロレスラー。ましてや相手は力自慢の豊登です。

「ワシが届くと言ったら届く。つべこべ言わずに黙って見てろ!」

きっとそんなことを言ったと思われる豊登は、手ごろなボールを選んでピンに向かって身構えます。指も太かったと聞きますので、おそらく一番重い16ポンド(7キロ強)のボールだったと思われます。ちなみにオリンピックをはじめとする砲丸投げで使用する球の重さも16ポンドで、現在の男子砲丸投げの世界記録は23メートル12センチ。ボウリングのトップピンまでの距離は18メートル余りなので、もしも本当に届いていれば、豊登は砲丸投げで当時の日本記録くらいは余裕で出せたはずです。

周囲が注目する中、精神統一した豊登が渾身の力を込めて投げた球は・・・・・残念ながらピンには届きませんでした。豊登が投擲したボールは、なんとボウリング場の天井を突き破って大穴を空けてしまったのです。おそらくゲームは続行されることなく、豊登以下のレスラーご一行は速やかに退散したものと思われます。

さて、この話をしてくれたグレート小鹿社長。その場には居合わせなかったものの、ボウリング場の天井に空いた穴は目撃したそうです。リキパレスにあったボウリング場の天井の高さがどれくらいだったかは知る由もありませんが、低く見積もっても2メートル半はあったはずです。その天井を突き抜けるほどのエネルギーを得るには、少なくとも3メートル以上は放り上げていたはず。

残念ながらノーバウンドでピンまで放り投げることはできなかったものの、豊登が人間離れした怪力の持ち主だったことは間違いないようです。



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