プロフィール
プチ鹿島(ぷちかしま)
1970年5月23日生まれ。血液型O。時事ネタを得意とする。東スポ歴は中学から30年。TBSラジオ「東京ポッド許可局」、同局「荒川強啓デイ・キャッチ!」(月・水)、YBSラジオ「プチ鹿島の火曜キックス」、NHKラジオ第1「午後のまりやーじゅ」に出演中。著書には「教養としてのプロレス」(双葉新書)。




2018年8月
« 7月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  



ドン・中矢・ニールセンの功績
2017年08月24日

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「視聴率」を一般人が気にするようになったのはいつ頃からだろう?

 


 自分で言うなら、プロレス週刊誌がきっかけだった。80年代中盤、プロレス中継の視聴率の結果をいち早く掲載していたのだ。ファンは「今週は視聴率が上がった・下がった」と一喜一憂していた。少なくとも当時中学生の私はそうであった。

 

 これにはプロレスファンの特殊な気質も関係している。

 

 まず「プロレスは世の中にどう見られているのか」という心配があった。そして視聴率があまり低すぎるとゴールデンタイムからプロレスが消えてしまうぞという危機意識があった。実際に当時そういう報道がちらほら出ていた。

 

 だからプロレスファンが視聴率を気にするようになったのは当然なのだ。

 

 1986年10月9日。アントニオ猪木がレオン・スピンクスと、前田日明がドン・中矢・ニールセンと格闘技戦をやった興行があった。

 

 前田の相手が決まってから「前田、ニールセンなんていう視聴率野郎をぶっ飛ばせ!」というひとコマ漫画が「週刊ゴング」に掲載され、私はえらく共感した。

 

 どういう意味か?

 

 現在は視聴率調査と言えば「ビデオリサーチ」だが、当時は「ニールセン」という会社も調査していたのだ。ファンはにっくき視聴率野郎とばかりに「ニールセン」という文字に燃えたのである。

 

 当日、猪木はヌルい試合をしてスベった。ファンが熱狂したのは前田対ニールセン戦だった。

 

 キックボクサーのニールセンの蹴りは予想以上に凄かった。

 

 前田は記憶が飛びながらも激闘の末に勝利。格闘技志向が高いUWFを率いて「アンチ・プロレス」の匂いすらあった前田が結果的にプロレスを守ってくれたのだ。プロレスファンからすればこのときの感動、興奮、うれしさ、頼もしさと言ったらなかった。

 

 同時にドン・中矢・ニールセンの実力者ぶりに敬服した。この名勝負で日本のファンに認知されたニールセンは空手家の佐竹雅昭とも戦い、日本の総合格闘技の夜明けに大きな足跡を残す。ニールセン、視聴率なんかと一緒にしてすまんかった。私はずいぶん反省した。

 

 先週、ニールセン氏が57歳で亡くなった。

 

 あらためて思う。あの日あのとき前田日明の相手がドン・中矢・ニールセンでなかったら、果たして今の格闘技の繁栄はここまであっただろうか?

 

 その功績は大きい。ありがとうニールセン。

 

 プロレス中継がゴールデンタイムから陥落したのは前田対ニールセン戦の2年後だった。

 

 プロレスと格闘技の時代の狭間に確かに彼はいた。



東スポ動画
ミス東スポ2019サバイバルオーディション
注目コンテンツ
予選ステージは7月スタート!

ビートたけし本紙客員編集長が審査委員長の独自の映画賞!

日本マット界の隆盛、発展を祈念し、東スポが制定したプロレス大賞です。

開催3場の全36レース(2場開催の場合は全24レース)の馬柱を完全掲載!