影響を受けたのはノムさん、栗山監督ら…稲葉采配の源流をたどる

2019年11月20日 11時00分

入団1年目の1995年に秋季キャンプで野村監督の指導を受ける稲葉(右)

【赤坂英一 赤ペン!!】「第2回プレミア12」で侍ジャパンが“世界一”を達成した。これで思い出したのが、稲葉監督が選手を引退した2014年、将来どんな指導者になりたいかと聞いたことである。「ボクが仕えた様々な監督の長所を生かせれば」と、当時の稲葉は詳しく答えてくれた。

 稲葉がヤクルトに入団した1995年、最初の監督は野村克也氏。常に「上から目線」で見下ろされて、たまに声をかけられたらボロカスにけなされたという。「でも、だからこそ、このオヤジに自分を認めさせてやろうと必死になって努力することができた」そうだ。

 この時代に学んだID野球が05年に移籍した日本ハムで生きた。稲葉は当時メジャー挑戦を目指してFA宣言したが、米国からオファーがなく、三沢今朝治球団社長補佐に拾われて日本ハムに移籍している。

 当時のパはセへの対抗意識が強く、稲葉も当初は生え抜きの選手たちとの間に壁を感じ、チームになかなか溶け込めなかったそうだ。そんな中、稲葉は独力でパ投手陣のデータを収集し、研究に研究を重ね、打撃で結果を出したのである。

 このころ、日本ハムで最初に相談相手になったのが、現在の侍ジャパンのヘッドコーチ・金子誠だ。後に稲葉がチームリーダーとなり、「ミスター北海道」とまで言われるようになった裏側には、「金子という一番の理解者がいたからこそ」と稲葉は強調していた。

 日本ハムで仕えた監督はトレイ・ヒルマン、梨田昌孝氏、現在の栗山英樹監督の3人。彼らはノムさんと違って、いつも友達感覚で気さくに接してくれたという。

 例えばヒルマンは稲葉が外野の守備練習をしている最中、よく自ら通訳を連れてやってきては、リラックスさせようと声をかけた。梨田監督には遠征先で食事に誘われ、真面目な野球談議もしたが、それ以上にダジャレを何度も聞かされた。ヤクルトで野村監督に教えられたのがID野球の奥深さだったとすれば、日本ハムの監督たちから学んだのは選手とのコミュニケーション能力だった。「それだけ気を使ってくれる監督の期待に応えたいという気持ちがモチベーションになりました」というのだ。

 そうした様々なバックボーンを持つ稲葉監督が今後はどんな采配を振るか。侍ジャパンを見る楽しみがひとつ増えた。 

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。毎週金曜朝8時、TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!」出演中。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」(講談社)などノンフィクション増補改訂版が電子書籍で発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」(PHP文庫)など。最新刊は構成を務めた達川光男氏の著書「広島力」(講談社)。日本文藝家協会会員。