“戦友”大下剛史氏が別れの言葉「サチ、お疲れさん。やっと試合終了だ」

2018年04月25日 20時00分

キャンプでお互いを意識しながら素振りする大下氏(手前)と衣笠氏(1975年2月)

【“戦友”大下剛史氏が衣笠祥雄氏に別れの言葉】悲しいというより寂しい。広島が初優勝した1975年に二遊間を組んでいた広島商の後輩でもある三村敏之が9年前に逝き、今度は三塁を守っていた衣笠祥雄が天国へと旅立った。初Vメンバーの内野手は、もう私とホプキンスの2人だけになってしまった。

 かねて体調が優れないのは知っていた。声にも力がなく、いつだったか本人に「もう、ええ加減にしたらどうじゃ」と仕事をセーブするように、声をかけたことがあった。サチの答えは「先輩、何を言っているんですか。まだ頑張りますよ」。目を三日月にして、はにかんだ顔が忘れられない。私が30代前半で現役を引退するかどうか悩んでいたときに「先輩、やめるなんて言いんさんなよ。1年でも長くやらにゃ」と声をかけてくれたのもサチだった。

 聞けば今月19日まで解説の仕事をしていたという。これもまた、なんともサチらしい。現役時代と同じだ。79年、巨人・西本聖に死球を受けて左肩甲骨を骨折しながら連続試合出場を継続したのは有名な話だが、とにかく野球を愛し、仕事を愛したのがサチだった。医者に「そのケガでは試合に出られない」と言われてもお構いなし。必要とされている以上はグラウンドに出てベストを尽くす。そのスタンスは、ユニホームを脱いだ後も変わることはなかった。

 平安高から捕手として入団しながら肩が弱いといって一塁に回され、三塁手となったのが初優勝した75年のこと。チームが弱かった時代にはファンにヤジられ、75年に帽子の色が赤になったときも、はじめは「女の子の色だ」と笑われた。輝かしい実績だけでなく、人に言えないような苦労も積み重ねたことで、野球に対する愛情もより深いものとなったのだろう。山本浩二らとともに現在へとつながる伝統の礎を築いたのがサチだった。そういう先輩がいたから今があるということを現役選手たちには再認識してもらいたい。

 これほど野球を愛し、野球に愛された男はそういない。サチ、お疲れさん。やっと試合終了だ。合掌。(本紙専属評論家)