【追悼 衣笠祥雄氏】華麗なる文化人との交流 文壇バーの常連だった

2018年04月25日 16時30分

ベンチでリラックスする衣笠氏(左)と山本浩二(1980年9月)

 衣笠祥雄氏の突然の訃報を受け、球界には大きな波紋が広がった。「すごい!広島カープ」の著者で本紙連載「赤ペン!」の赤坂英一氏は緊急寄稿で衣笠氏の思い出を語り、当時をしのんだ。

【赤坂英一 赤ペン】衣笠祥雄さんがTBSで次回の解説をする予定は明日26日、横浜スタジアムでのDeNA―広島戦だった。が、今月19日のDeNA―巨人戦が最後の解説となり、さぞ無念だっただろうと思う。意外にといっては失礼ながら、衣笠さんは大変勉強熱心で、ルール変更などがあると、自ら若い審判に話を聞くような人物だったからだ。

 広島で最後までじっこんの付き合いを続けていたのは、トレーナー部アドバイザー「福永先生」こと福永富雄さんだったはずだ。2016年、カープが25年ぶりに優勝したときも、福永先生と衣笠さんの思い出話になり「サチは最近もよくウチに来るよ。お互い、昔話が楽しいトシになったんじゃね」とうれしそうに話していたものである。

 そんな衣笠さんと私が最後に会話を交わしたのは15年11月、東京ドームでの国際試合プレミア12の試合前だった。実は、その直前まで衣笠さんは病床にあり、一時は生命を危ぶまれるほどの重篤な状態に陥った。そうした事情を知る関係者を前に「心配かけたけど、もう大丈夫だよ」と笑い飛ばしていたのがいかにも鉄人らしい。

 衣笠さんは健啖家で、若いころから肉が大好物。TBS関係者によると、しゃぶしゃぶの後、さらにステーキを平らげることも珍しくなかったという。関係者が気を利かせたつもりで小料理屋へ招待し、目の前に刺し身の舟盛りを出されたときは、とても複雑な顔をしていたそうだ。

 初優勝した1975年の監督、古葉竹識さんによると、若手のころの衣笠さんはやんちゃなところもあったらしい。当初監督だったジョー・ルーツ氏が初めて帽子を赤に変えると「こんな女の子みたいな帽子かぶれるか」と猛反発。前年までの紺色の帽子で練習に現れ、首脳陣とやり合っていたという。

 主力となってからは、昭和時代のスター選手らしく、関東遠征のたびに銀座に繰り出し、夜の街で勇名をはせていたと聞く。とくに、作家・勝目梓、作詞家・小林亜星、漫画家・黒鉄ヒロシ各氏が常連の文壇バーMがお気に入りだった。

 75年の初優勝の夜もこのMで個人的祝杯を挙げ、当時の座右の銘「忍耐」と書いた色紙を残している。球界の鉄人は、そうした文化人との交流もあったのだ。

 83年、1247試合連続出場の日本新記録を達成したときは、記念品としてマドラーを作り、個人的な関係者や後援者に配った。文壇バーMの常連客だった私も1本もらい、時々自宅での晩酌に使っている。このまま使い続けていいのかどうか、使わずに保存しておくべきだろうか。

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