巨人ナイン支えた名広報・香坂さんの「仕事史」

2018年04月18日 16時30分

“名広報”の香坂さん

【赤坂英一 赤ペン】巨人で一時代を画した“名広報”香坂英典さんが現場を去った。昨年で定年を迎え、今後は球団事業本部付として第2の人生を歩むことになる。

 香坂さんは元投手で、1979年ドラフト外で中大から巨人に入団し、84年に引退後、藤田監督最終年の92年から広報に就任。長嶋、原、堀内監督の下で、2004年までチームとマスコミとの間を取り持ってきた。

 今改めて思い出されるのは99年のヤクルト戦で、上原がペタジーニ敬遠を命じられて泣いた一件である。上原はこの試合で20勝目を挙げ、最多勝が確定した。が、肝心のヒーローインタビューの前、香坂さんに「あのこと(敬遠)を聞かれるんなら嫌ですよ」と言いだしたのだ。

 香坂さんは中継テレビ局のアナウンサーと交渉し、上原の言葉を伝達。アナは敬遠について質問せず、その代わり「笑いあり涙ありの大変な一日でしたね」と水を向けて上原を噴き出させた。

 00年の宮崎キャンプでは、FA移籍した工藤の投球練習後、報道陣が多いからと取材対応をブルペンの中で行った。そのあと「ブルペンの外はファンが大勢いるので、工藤を囲んだまま、次の練習場まで移動してください」と要請。「協力しない社は出禁にしますよ」と冗談交じりに言われた記者たちは、喜んでガード役を務めていた。

 清原が二軍スタートとなった04年のキャンプでは、清武の球場の前にプレハブ小屋を建てた。現在はオリックスが使用している球場はまだ工事中で、グラウンドで練習はできるが、記者が原稿を書く部屋やスペースがない。そこで、香坂さんが地元の業者にプレハブの建築を発注したのだ。

 さらに、球場の近くには食堂やコンビニがなかったため、宿舎のホテルに協力をあおぎ、特別に報道陣用の食事も提供。私も毎日、プレハブ小屋で昼ご飯をいただいた。

 香坂さんは放送や新聞だけでなく、写真週刊誌にも親切だった。カメラマンを見つけると、朝の散歩の際に清原が通る道を教えて「近所の迷惑にならないよう、そこでキヨを撮ってください」と丁寧に説明している。

 その清原や松井など、主力選手の信頼が厚かった香坂さん。選手の気持ちを第一に考えながら、取材するメディアにも気持ちよく仕事させることを心がけていた広報でもあった。長い間、本当にお世話になりました。

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