星野仙一の輝きの裏に高橋三千丈あり

2018年03月29日 11時00分

ドラフト1位で中日に入団した高橋三千丈(1983年5月)

【越智正典・ネット裏】3月28日は「星野仙一氏お別れ会」「大阪会場」式典当日である。

「大阪会場発起人」は阪神タイガース、オーナー坂井信也。大阪市北区ハービスOSAKA地下2階で、13時から14時。一般献花は16時から18時である。

 私は、改めていちばん星野に尽くした高橋三千丈を思い浮かべている。

 高橋三千丈がもし、あのとき、米フロリダ州セントピーターズバーグで誠を貫いていなかったら、また、もし、同年のあのとき、引率して行った1987年、中日入団の新人、大宮東の荒川哲男、愛工大名電の山崎武司の育成に一念不動でなければ、翌88年のベロビーチ、ドジャーキャンプは実現しなかったであろうし、その年の星野の監督初優勝もなかったであろうし、その後の星野の輝きもどうなっていたか。

 高橋は56年、静岡県熱海生まれ。静岡商から明大に進学。78年投手主将。6勝を挙げ明大完全優勝に貢献。79年中日に入団。ドラ1の期待どおりにあっという間に5勝。が血行障害。苦しみを越え、83年対阪神で史上初の無補殺試合を達成。85年中日のコーチに。

 その頃、彼はオフになると明大監督島岡吉郎“御大”に必ず挨拶に。網代の干物を山のように届けていた。高橋より先輩だが、明大捕手、63年卒、千葉敬愛の監督村山忠三郎は御大の恩愛を忘れずに秋、新米が出来ると、合宿所にかつぎ込んだ。2人は“いい勝負”をしていた。

 87年3月はじめ、高橋、荒川、山崎の3人は熱田球場で壮行式。中日ナインには何のことかわからず、むしろ淋しい旅立ちだった。正明ちゃんは1歳2か月。留守を守る木の実夫人は心細かったであろう。

 当時マイナーチームへの選手委託料は5000ドルから高くて1万ドルが“相場”だったが、いってみればポジションを買うことである。このドラ3人の場合は1人10万ドルで計30万ドル。アイク生原の付添料が5万ドル。ドジャースのオーナー、ピーター・オマリーは“売らなかった”。現場監督にまかせるのが信条(セントピーターズバーグの場合は監督ジョー・アルバレーズに)。2人は試合に出られなかった。

 見学。終わると高橋は投げ、2人に100本ずつを打たせ、2人にノック100本を打ち込んだ。試されていたとも言える。この姿は、ピーター・オマリーが最も信頼するドジャースのドミニカベースボールアカデミー館長、ラルフ・アビラの心を打ち、LAにも報告された。

 8月1日、3人はのびのびと試合に出られるようにドミニカに飛んだ。アビラは高橋に優勝がかかったサントドミンゴ・アスレチックス戦にストッパーの栄を贈った。日没引き分け。翌日サントドミンゴ・ヤンキース戦の9回にまた誉れを贈った。10回、チームは勝った。荒川と山崎は高橋に突進した。山崎はドミニカリーグのホームラン王になった。 =敬称略=
 (スポーツジャーナリスト)

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