日本の良い時代を知る男の寡黙な仕事

2018年03月10日 16時30分

阪急の梶本隆夫投手(1963年)

【越智正典 ネット裏】1958年春、国鉄スワローズのマネジャー小阪三郎は、広島県福山での国鉄―巨人の試合前に、地元出身、先発の国鉄2年目の有望投手島谷勇雄(盈進商)に次から次へと贈られる花束を数えていた。

「38束もありましたな」

 島谷の実家は福山の大手の鯛の問屋さん。みんなが前途を祝福したのであるが、小阪はしかし「大丈夫だろうか。郷土の期待が重圧となって島谷にのしかかって来ないだろうか」と心配していた。小阪の名セリフと言ってよいだろう。

 小阪三郎は職業野球発足の36年に結成された、名古屋軍の二塁手(宇治山田商、明治大、三田の簡易保険局)。戦時下、選手が次々に戦争に引っぱられて行くと、マネジャーを兼務、ずいぶん苦労をした。戦争が終わり46年に職業野球が復活。50年にプロ野球が2リーグになると国鉄スワローズのかげの指南役として日本職業野球連盟から派遣された。職業野球時代に入団した選手たちはだれもが心やさしく、プロ野球の発展を心から願っていた。なにせ、1年間に全職業球団の合計で100万人のお客さんに来てもらうのが悲願だったのである。

 長嶋茂雄のプロ初安打はオープン戦ではあるが58年3月1日、高知での阪急戦。8回満塁の好機に先発梶本隆夫の未調整のカーブを左前へ。梶本に会いに行くと相変わらずニコニコしていた。

 梶本隆夫は多治見工業の左腕。53年夏の高校野球甲子園大会の岐阜大会で安藤順三(東映)とのバッテリーで1試合奪三振18。熊本工業の川上哲治の先輩投手、36年阪急に入団、職業野球が心配で戦地から便りを欠かさず、戦後はスカウトになっていた丸尾千年次が惚れた。スカウト自由競争時代である。梶本は54年に阪急に入団。なんと西宮球場での開幕第1戦の対高橋ユニオンズに先発。途中苦しい場面もあったがプロ入り初勝利を飾った。57年、長嶋と対戦する前年まで公式戦で計90勝。

「へえー、ヒットを打たれたの」。長嶋を見下し勝負していたのではない。梶本隆夫はオープン戦初期はバッターのことなど考えてもいなかった。ストレート、カーブ。自分が投げる球しか考えていなかったのだ。

 オープン戦そのものではないが楽天二軍はイースタン・リーグの教育リーグが始まると、関東地区を転戦する。仙台に帰ってもまだ寒く、帰仙はイースタン・リーグ公式戦開幕直前である。昨年ロッテ浦和のベンチ横で立派な男を見た。バスのドライバー渡辺芳博。試合中、出入りする楽天二軍の選手たちはネットフェンスの扉を閉めていかない。渡辺は見かねてか、扉の前に立ちどおしで閉めていた。黙ってやっていた。日本のよい時代の男である。星野仙一に知らせたが、すでに病重くなりはじめ届かなかった…。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)