【越智正典 ネット裏】職業野球第1号球団、大日本東京野球倶楽部(巨人軍)は、けわしい昭和が始まっていた1934年12月26日に誕生。あけて35年1月15日、このとき数え年で19歳の沢村栄治ら18選手が静岡電鉄の草薙球場で練習を始めた。第1次渡米遠征に備えての、巨人最初のキャンプである。

 宿は静岡駅前の老舗旅館。壮行試合を経て、83年前の2月14日、横浜出帆の日本郵船の豪華客船、1万7526総トンの秩父丸でサンフランシスコへ。秩父丸はその後、鎌倉丸と改称。戦争が始まり、43年4月28日、フィリピン沖で右舷に米潜水艦の魚雷を受け南の海に沈んだ…。秩父丸は2月27日、波涛を越えてSFに入港。上陸のとき、持参した練習用ボールに55ドルの税金がかけられたという。

 …88年、星野仙一ら中日ドラゴンズがベロビーチに着く現地時間2月15日、陸送トラックがドジャータウンに着いた。日本通運名古屋の社員が梱包をほどいた。野球帽300、麦茶がダンボールで10箱、耳かき20本、中日球団社長中山了の囲碁セット。私は驚きながら先輩に聞く巨人SF入港を思い浮かべていた…。

 巨人は渡米遠征のキャンプ地、メリーズビルへ。カリフォルニアの州都サクラメントから200マイル。71年に訪れると、往時の球場は市民病院と自動車工場になっていた。午後3時に町の新聞「アピールデモクラット」が家々に配達されていたのどかな町だった。

 監督三宅大輔は「レフトのうしろにトリ小屋があったんですが、ある朝、行ってみると、キツネに食べられちゃっていましたよ」。

 1週間後、行程およそ2万キロ。大陸横断のハネ発ちの転戦が始まる。

 三宅の日記

「五月十九日、…選手は疲労と空腹で試合中にいねむり。…三振しても可哀そうで怒ることが出来ない。バンクーバーでは外套を着ないと寒かったがプレマトンでは東京の八月位いの暑さである。この日、シャトルから足が痛い苅田が松葉杖にすがって試合に来て一緒に帰る」

「五月二十日、目下の故障者、苅田・足、二出川・入院、青柴・風邪、永沢・頭と足、堀尾、津田・右手死球、田部・すべり込みで首を痛める」

 巨人の静岡キャンプは続いた。川上哲治も闘志の捕手吉原正喜も静岡にキャンプイン。40年静岡が大火で被害甚大だったので福岡春日原などに移ったが、戦後49年から明石に定着した。

 58年長嶋茂雄が明石にキャンプインしたのはよく知られているが、駅前広場にファン5000人。この日巨人は練習休みだった。

 長嶋を迎えた大手旅館の主人、横山茂雄は、ささ、お疲れでしょうと、2階の奥の部屋に案内し、茶漬けを出し「ゆっくりお休み下さい」。翌2月17日、監督水原茂は例年どおりの新人紹介をした。

「新しい弟が増えたと思ってみんな、よろしく頼むよ」。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)