【越智正典 ネット裏】日本ハムが米アリゾナ州スコッツデールにキャンプインした。年間330日が快晴、温暖なアリゾナへ、ひところ日本球団が続々キャンプインしたときがあった。その当時のある強打者。米ドルはキャンプを打ち上げるまで持っていたほうがいい。何が起きるかわからない。家に電話をかけるときは「コレクトコール」だと、後払いだからよいと聞かされ、なるほどと感心。そうだ、家に安着を知らせようと、宿舎の部屋の電話をとりあげ交換手に頼んだ。「コレステロール」プリーズ! “豪傑”のたのしい春であった。

 1988年、ベロビーチキャンプが決まり沸き立っていた中日キャンプの沖縄石川球場の事務所に、監督星野仙一の北海道の友だちから陣中見舞いに「いくら」が大樽で届いた。マネジャー福田功は事務室を飛び出しみんなに「オーイ、凄いぞ。今夜のおかずは『ハウマッチ』だッ」。福田(捕手、中央大)は高校野球の名監督、人格すぐれた、奈良県郡山高の森本達幸の最愛の教え子であるが、はじめ、キョトンとしていたナインはドッと沸いた。

 55年、水戸一高から西鉄に入団した玉造陽二は島原キャンプのなかば、監督三原脩の部屋を訪れ、卒業式に帰郷の許可を貰いに行った。三原は「なつかしい友だちに会うのがいいか、レギュラーがいいか」。ハッとした玉造が「水戸へは帰りません」と言うと、三原はこの新人に適したバットを贈った。玉造は俊足トップバッターで活躍する。

 57年、国鉄スワローズのキャンプの宿、別府の奥の観海寺温泉の雅な旅館を国鉄本社の偉いさんが陣中見舞いに。大広間で選手激励夕食会。偉いさんが監督宇野光雄に「ことしはやるだろうね。みんな元気がいい…」と言うと、宇野はトボけた口調で「ビリです」。投手田所善治郎らが「ヒドイ」と怒った。すると宇野は「そうか。それなら投手はこれから別府駅まで駆け足!」

 金田正一の弟、金田留広が69年、東映フライヤーズに入団。伊東キャンプへ出発に当たってカネやんは壮行の辞を贈った。

「朝起きたらみなさんにおはようございます。夜はお休みなさい。これが出来れば20勝間違いなし」

 野村克也が現役捕手兼南海ホークス監督第一年の70年、一行は南海電車で和歌山。和歌山から南海汽船で小松島。小松島ではオバチャンたちが「チクワ買うてー」。春を告げていた。オバチャンたちの一番人気は野村。どっさり買ってくれるからだ。バスでまだ鉄道が通っていなかった高知県大方へキャンプイン。

 野村は「新人たちは遠い町に来たんだ。しばらくそっとしておこう」。

 数日後、新人佐藤道郎(日大三、日大)をブルペンに。野村が実戦同様にサインを出すと、佐藤は一球ごとに大きな声で「ハイ!」。純な春であった。佐藤は新人王になった。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)