巨人の打撃投手が語る憧れのスーパースター「KKコンビの真実」

2018年01月27日 11時00分

桑田(左)と清原のKKコンビの活躍に東京ドームは沸いた(1997年)

【Gの裏方は見た!(2)】巨人で16年間打撃投手を務めた岸川登俊氏が歴代スターの知られざる姿を振り返る「Gの裏方は見た!」。第2回はいわずと知れたスーパースター・清原和博氏(50)の登場だ。岸川氏が今回明かすのは恐怖の“番長ご指名エピソード”。KKコンビのもう一人の雄、桑田真澄氏(49)との心温まる交流も披露する。

 清原さんと私の接点は2004年の宮崎二軍キャンプでした。その年の私はオフに腰を痛めてしまい、早々に二軍スタートが決定。「ファームで若手を相手に投げてじっくり治そう」と考えていました。ところが年が明けると清原さんと堀内恒夫監督との確執が表面化(注)。後輩の元木大介、後藤孝志とともに、プロ初のキャンプ二軍スタートとなったのです。

 当時、清原さんの“専属左腕”だった打撃投手の中条善伸さんは、グアムの一軍キャンプに参加していて不在。そうなると二軍では私が投げるしかありません。初めて清原さんに投げたときのことは緊張で記憶にありませんが「お前、ええタマ投げるやないか」と褒められたことだけは覚えています。

 グアムから帰国した一軍が宮崎へ合流し、ようやくホッとしていたある日のランチ特打は清原さんの番でした。ふとベンチに掲げられたボードの打撃順を見ると、清原さんの名前の横には私の名前が!「キヨさんが、なぜオレを…」と驚いていると、打撃コーチの井上真二さんが「“ご指名”なんだよ」とニヤリ。一流打者に認められればうれしいはずですが、当時の私にそんな余裕はありませんでした。

 迎えた開幕戦。清原さんがシーズンの相手に指名したのは私でした。高橋由伸、二岡智宏、阿部慎之助らに投げるのとは重圧が段違いです。最初は緊張のあまり、体重が激減しました。結局、翌年のオフに退団するまで私がフリー打撃の相手を務めましたが、清原さんといえば、思い出すだけで青ざめるのが“自打球事件”です。

 ある日の横浜スタジアムの試合前でした。私が何げなしに投げたカーブを打ち損じ、自打球が清原さんの足先を直撃。「イテーッ!」と悶絶して、倒れこんでしまったのです。実は練習で清原さんが自打球を打ったのはそのときがプロ人生で初めてだったそうです。

 大事には至りませんでしたが、翌日の練習で「お前のせいで、ツメが死んだわ」というドスの利いた言葉をかけられた私は凍りつき、それからは清原さんが相手のときだけストライクがまったく入らなくなってしまいました。いわゆる“イップス”です。実は打撃投手はイップスが原因で職を失う者も多くいます。私の場合は、不調を見かねたコーチが一時的に他の打撃投手に交代してくれたおかげで、なんとか立ち直ることができました。

 ただ、1球打つごとに打撃用手袋のマジックテープを巻き直す“間”は、最後まで苦手でしたね。打撃投手は一定のテンポで投げ続けたいので参りました。結局、清原さんへの恐怖は消えませんでしたが、彼の男らしい優しさに触れたこともあります。2000安打を達成した04年、私を含めたスタッフ総勢約20人をゴルフ、コンパニオン付きの箱根温泉旅行にポケットマネーで招待してくれたのです。「裏方さんたちあっての俺だから」という感謝の言葉が心に残っています。

 ちなみにKKコンビといえば、桑田さんにも個人的にお世話になりました。一番に思い出すのは、桑田さんが当時住んでいた郊外のマンションへ私が家族で引っ越したときの話です。荷物の片付けを済ませて私が自宅のベランダで休んでいると、真上の階からスルスルッとひもがついたバスケットが下りてきたのです。中に入っていたのは、高級なワインとグラス。私が驚いていると、頭上から「岸川くん、それお祝いだから受け取って~」と。粋な人ですよね。

 それからも桑田さん一家とは家族ぐるみで付き合っていただきました。そういえば今をときめくタレントのMattくんも、小さいころは我が家のバルコニーのビニールプールで遊んでいたなあ。

 KKコンビは2学年下の私にとって、高校時代から雲の上のスーパースター。その2人と身近に交流できたことは本当に幸せでした。

<注・清原と堀内監督との確執>2004年1月、監督就任1年目の堀内監督は清原のキャンプ二軍スタートを決断。1次キャンプは一軍グアム、二軍は宮崎となった。堀内監督は一塁のポジションについても「ペタジーニと競争」と清原に確約しなかった。チームを立て直すため「清原軍団」の解体を目指した堀内監督は04年シーズン終了後、清原放出を画策。これを察知した清原が球団事務所に乗り込み「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と滝鼻オーナーに直談判をするという異例の事態に発展した。流れが放出に傾く中、清原は球団との2度目の会談で、01年オフにFA宣言せずに4年契約で残留した際に読売首脳と交わした文書を公開。「契約期間中は清原選手の同意がなければ放出できない」「4年目の契約は清原選手の意志を尊重する」などと記され、読売首脳の署名が入っていた。検討の結果、有効と判断され、清原の放出は実現せず。05年8月4日の広島戦(広島)では、7番降格に激怒した清原が、本塁打を放っても首脳陣とのハイタッチをスルーする「ハイタッチ拒否事件」が起きた。05年シーズン終了後に堀内監督は退任。清原は戦力外通告を受け、オリックスへ移籍した。

☆きしかわ・たかとし=1970年1月30日生まれ、東京都大田区出身。左投げ左打ち。安田学園高―東京ガスを経て94年ドラフト6位でロッテに入団。その後はトレードで中日、オリックスと渡り歩き、2001年引退。プロ通算成績は87試合0勝4敗、防御率7.40。02年に打撃投手として巨人入りしてからは高橋由伸、小久保裕紀、村田修一、長野久義ら主力打者の練習相手を16年間にわたり務めたが、17年限りで定年により退団