【気になるアノ人を追跡調査!!野球探偵の備忘録】今春のセンバツからタイブレークの導入が決まるなど、時代とともに変わりつつある高校野球。だが、かつて甲子園を沸かせたスターたちの輝きは、何年たっても色あせることはない。荒木大輔の早実、水野雄仁の池田、KKコンビのPL学園…。高校野球人気が全盛だった1980年代初頭、一時代を築いた3校すべてと甲子園で投げ合った一人の投手がいる。「Y校」の愛称で親しまれた横浜商のエース・三浦将明が、怪物たちとしのぎを削った3度の甲子園と、あの男への思いを激白した。

「よく“悲運のエース”って言われるんですよ。でも、自分では悲運と感じたことは一度もない。超一流のやつらと対戦できて、こんなに幸運なことはないな…と思ってます」

 エースとして名門・横浜商を2度の甲子園準優勝とベスト4に導いた三浦だが、入学当初は目立った選手ではなかった。約20人いた投手のなかでも球速は一番遅かった。それでも変化球を磨き、エースの座を手にする。三浦いわく、当時の横浜商ナインは「サボりの天才」。表向きはまともに練習をせず、おのおの後輩を引き連れては陰で“秘密の特訓”に興じていたという。

「3年生は自由にメニューが組めるんですが、僕は卓球ばっかりやっていた。投げ込みも『気合の一球』なんて言って、本当に1球しか放らなかったくらい。合宿ではグラウンドから宿舎まで約30キロの帰り道を走らされるんですが、僕とキャッチャー以外はヒッチハイクした軽トラの荷台に乗って帰ってました(笑い)。あるとき宿舎の軽トラを捕まえちゃって、バレて全員強制送還。チーム力がガタ落ちでしたよ」

 運が良かったと語る2年春(1982年)のセンバツでは、当時人気絶頂だった荒木擁する早実を破り、4強に進出。三浦の名前も一躍、全国区になった。

「今と違って、あのころは甲子園のスターが本当にアイドルだった。試合前に先輩から『荒木に勝たなかったら殺すからな!』とどやされたんですが、先輩って言ってもせいぜい4~5人じゃないですか。『荒木さんのファンは100万人はいるだろうし、どっちにしろ殺されるな…』とか考えてました(笑い)。結果的に勝ちましたけど、当時2通だけ届いたファンレターに、2通ともカミソリの刃が入ってましたから」

 センバツでは好投したものの、実は大会前から肋骨を疲労骨折していたことが判明。夏は地方大会で敗れた。その年の甲子園で荒木の早実は準々決勝で池田に大敗。同大会を制した池田の“やまびこ打線”が新たな覇権を握る。

「荒木さんが打たれたのはマグレだと思っていた。俺はそんな田舎のチームに負けるはずがないと…」

 自信を持って臨んだ3年春(83年)のセンバツは決勝でその池田と激突。だが、エースで4番の水野が引っ張る池田の前に完敗を喫した。

「先頭打者に初球をライト前に運ばれて、次の初球は三遊間。サイレンが鳴り終わる前に追い詰められて『やまびこってこういうことか』と思いましたね」

 三浦は“打倒池田”を目標に掲げ、新球獲得に取り組んだ。3キロの鉄アレイを指の力だけで持ち上げる特訓で、わずか3か月でフォークを習得。迎えた夏は神奈川を制し、再び甲子園決勝の舞台に帰ってきた。相手は夏春夏の3連覇がかかった池田を準決勝で破る番狂わせを演じたPL。「誰にも打たれたことがなかった」という自慢のフォークはしかし、新たな時代の寵児に砕かれる。

「今でこそなくなりましたけど、40代のころまでは夏が来るたび夢に出てきた。夢では真っすぐだったり、カーブだったりを投げるんだけど…。まるで吸い込まれるようだった」

 甘く入ったフォークは1年生だった清原和博に捉えられ、ライトのラッキーゾーンに。これがその後、聖地で13本の本塁打を積み重ねる清原の「甲子園1号」として記録された。また、PLの先発を務めたのは清原と同じ1年生の桑田。春に続いて最後の夏も、頂上を目前にして今度はKKコンビに全国制覇の野望を打ち砕かれた。

「荒木さんは憧れ、水野は目標かな。桑田は全日本で一緒になったとき『三浦さん、パンツください』とか言ってきて。当時のPLは1年はブリーフという決まりがあって、新品のトランクスをあげたのを覚えてます(笑い)。清原は…いちファンですね。何かの番組に出演してるときに昔の映像が流れて『あれ、これ三浦さんじゃないですか』と覚えてくれてたことがあった。それがメチャクチャうれしくて。ああなっちゃいましたけど、他人からどう言われようが、もう一度認められるまで頑張ってほしい。1じゃなくて、0に戻る気持ちでやってほしいですね」

 高校野球人気が絶頂だった時代、その象徴だった怪物たちと互角の戦いを繰り広げた男は今、一人のヒーローの復活を願ってやまない。

☆みうら・まさあき=1965年9月17日生まれ、神奈川県川崎市出身。小学校5年生のとき、スポーツ少年団「あすなろ」で軟式野球を始める。御幸中では軟式野球部に所属。横浜商では1年秋からエースとして3度甲子園に出場し、2年春に4強、3年春、3年夏はいずれも全国準V。1983年にドラフト3位で中日に入団するも、90年に現役引退。その後、佐川急便に入社し軟式野球部でプレー。運送会社「湊エキスプレス」を経て、現在はスポーツDEPO小牧店にベースボールアドバイザーとして勤務。188センチ、85キロ。右投げ右打ち。