【越智正典 ネット裏】“宿命のライバル”水原茂、三原脩。巨人―西鉄は1958年、日本選手権で激突した。巨人は56、57年、西鉄に一蹴されたが、この年はいきなり3連勝。王手をかけた。

 平和台球場での第4戦は4対6。そして第5戦。3対3の同点の延長10回、一死からなんと稲尾和久が大友工の第2球を左翼席に高々とホームラン。サヨナラホームラン。稲尾を出迎えにベンチを飛び出した西鉄ナインはホームベースを指差して「ここだよ、ここだよ」。プロ野球は、すぐれた脚本家でも書けないような名セリフで綴られて来た。

 大洋の名捕手土井淳は対広島の危機に打席に入って来たカープの強打者に「モシモシ、ゴジラさん、社会の窓が全部開いてますよ」。ユニホームのズボンのボタンがはずれていたのだ。彼はモジモジし始め、バットを出すのがやっとだった。

 65年3月27日。国鉄の名一塁手飯田徳治の引退記念試合の横浜平和球場(横浜スタジアム)。南海の投手皆川睦雄と捕手野村克也の呼吸はぴったりだった。内角を攻めてぶつけたら先輩に申し訳ないと外角へ。2ストライクからの投球が外角に決まったかに見えた。球審田代照勝の右手がストライク! と上がりかけたとき、野村が言った。「いまのはボールです」。飯田は次球を右中間に三塁打。野村の“美技”である。

 72年、鈴木孝政がドラ1で中日に入団すると、千葉県蓮沼村(現山武市)で精肉店を営んでいた父親はジャガイモ畑を整地して総二階の家を建てた。父親はプロ野球をよく知らない。息子は名古屋で修行したら千葉へ転勤してくると思い込んでいた。

「畑をつぶさなければコロッケがいくつ出来るんだ。孝政の親不孝め!」

 中西太が西鉄に入団したのは52年だが、西鉄の小倉遠征の宿、萬屋といったと記憶しているが、夜、ナインは「ことしの春はカエルがよく鳴くなあー」。中西が庭でバットを振っている音だった。前記58年シリーズ逆転優勝を決定的にしたのは第6、7戦の中西の先制ホームランだった。

 西鉄の基礎を作った根本陸夫は広島監督時代「こんなにいい選手が二軍にいたのか。勿体ないから一軍に上げるな」。

 戦前のセネタースの名人、苅田久徳。「覚悟さえ決めれば、だれでも上手になれます」。

 鉄腕杉下茂。ここというときに空を見上げた。「ああ、いい気持ちだ。オレが投げなきゃ、野球は始まらねえーや」。

 終戦直後の南海の兼任コーチ岡村俊昭は、選手が打撃を教えて下さいというと「構える。球がくる。打つ。ヒット。以上」。

 阪神の監督、吉田義男は86年、安芸のキャンプで打撃練習に投げ出した入団2年目の嶋田章弘(箕島高)のうしろでコーチが指導し始めると烈々、怒号した。「教えるな」。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)