【越智正典 ネット裏】東都大学の審判、中央大OB、土屋伸司は、担当当日は一番電車で伊豆修善寺から神宮球場にやってくるが、ふだんは町の人々に尽くしている。仕事が休みの火曜日は朝はやく起きて家の畑から野菜を獲って来て庭に並べ“食べて下さい”。高齢で買い物へ行くのが不自由な人々に喜ばれている。そんな男だから野球関係者は伊豆に来ると、彼に会いに来る。彼はことしセで大敗、スワローズの再建を託された小川淳司の監督再任を喜んでいる。

「きっといいチームを作りますよ。わたしが1979年に中大に入学入部したとき、練馬区立野町の合宿(当時)で1年間小川先輩と同室だったんです。決して威張らないひとでした。心やさしいんです。いや、やさしいだけではありません。昨年も修善寺にゴルフに来てくれたんですが、翌朝が凄いんです。4時に起きて5時には帰るんです。シニアディレクターは監督時代ほど忙しくないハズですが、このけじめが凄いんですよ」

 小川淳司は57年8月30日、千葉県習志野市大久保で生まれた。習志野二中から習志野高。前阪神二軍監督掛布雅之は2年上だが、掛布の父、泰治は当時、会うとわが子のように「小川、小川」と言っていた。家は旧家で庭石にボールをぶつけて遊んでいるのを見た、近所の理髪店のオジサンがキャッチボールをやってくれた。彼はいまでもこのオジサンに感謝している…。

 当時、習志野の監督は若く、きびしかった。1年生部員は3年生になるまで学校の食堂に入れなかった。前記土屋はいう。

「先輩は要するに品がいいんですよ。どこか、おっとりしているんですよ」

 習志野は75年、千葉大会準決勝で銚子商を2対1。4回に小川が放った2ランは左中間芝生席の最深部に打ち込まれた。決勝は君津を5対2。習志野は第57回の夏の全国大会に出場した。旭川竜谷を破ると、それから足利学園、磐城、雨中戦となった広島商…と3試合連続完封、30イニング無失点。新居浜商との決戦の前夜は肩に激痛。ねむれなかったが、全国優勝を果たした。

 韓国遠征で3試合に投げ、優勝めざした国体でも5試合に登板。卒業にあたり日本学生野球協会から「学業成績優秀」で表彰されたが、中央大に進んだときは投球過多で肩は潰れていた。外野手に転向。飛球が上がると、関係者はハラハラしていた。捕っても送球出来ない。

 打者として開花したのは3年生になってからで、日米大学選手権では東海大の原辰徳、早大の岡田彰布とクリーンアップを組んだ。河合楽器で勉強し81年ヤクルトに4位で指名され、82年に入団。上位でなかったのがよかった。

 99年にヤクルトの二軍監督に。イースタン・リーグ戦を見に行くと、試合が終わると真っ先にトンボをかけたのは小川であった。といって気負っていない。さらりとやっていた…。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)