新人・稲葉篤紀を見込んだ男

2017年08月19日 16時30分

ドラフト3位でヤクルトに入団した稲葉(上段左)。手前右は野村監督(1994年12月)

【越智正典 ネット裏】稲葉篤紀が2020年の東京五輪に出場する野球の日本代表、侍ジャパンの監督に選任されたとき吉川登は感無量であった。吉川は日体大荏原高から中央大に進み、マネジャーを務めた。当時、中大グラウンドと野球部合宿所は練馬区立野町。吉川は近くの家々や店の人々にも「お世話になります」と心を配りよく尽くしていた。1973年、卒業後、東都連盟や神宮球場の推挙でヤクルトスワローズに入団してマネジャーなどを務めた。

 吉川と中京大中京高、法大、ドラフト3位でヤクルトに入団した稲葉が出会ったのは94年秋のことである。プロ野球でいちばん大切なことはなんですか…と稲葉に聞かれた吉川は、その人柄から監督、コーチがいるのに出過ぎてはいけないと思ったが、新人の目の輝きを見て返事をしないわけにはいかなかった。「全力疾走さ」と答えたが、素晴らしい若者だと心打たれた。

 吉川はマネジャーを務めたあと営業担当になった。すぐに東北出張の企画を立案し、新幹線に飛び乗り、飛び降りて、紹介もアポもなく、駅前の旅行代理店に飛び込みで中学、高校が東京に修学旅行で来るときは、ぜひ神宮球場に来てください、ナイターはキレイですよ、日程に入れてください…と勧めて歩いた。いまでも修学旅行の生徒たちが神宮球場にやってくると頬っぺたが赤い生徒たちをスクリーンに映し、ようこそ、と歓迎しているが、年に1万8000人もの修学旅行の生徒たちが来場した年もあった。プロ野球の将来のためにも吉川の大殊勲である。

 ちょうど、そのとき、日本ハムの小山田健一が吉川に言うのであった。小山田は68年ドラフト6位で日大山形から東映に入団。1年の二軍修行ののち一軍に上がった捕手であるが、76年にヤクルトに移籍し、78年限りで現役のユニホームを脱ぎ、それから打撃練習投手と同捕手も務めていた。その一心な姿に、吉川は敬愛の思いでいた。

「今度ヤクルトに入った稲葉は立派な青年です。必ずヤクルトの基幹選手になります。将来、監督にもきっとなれます。成長をたのしみにしています」。このとき、吉川も小山田も、稲葉が05年、日本ハムに移籍するとはまさか思ってもいない。吉川は、このとき稲葉を「この男」と決めた。

「稲葉、試合が終わってクラブハウスに引き揚げるとき、ライトフェンスのすぐそばを通ってくれ」。当時、私は稲葉の脱帽一礼、吉川がすぐそばでニコニコしているのを見るたびにヤクルトを担うのは古田ではない…と思っていた。

 吉川は言うのだ。「小山田健一さんの息子さん、小山田貴雄がうちのブルペン捕手で頑張っています。誠実な男です」。私は吉川(㈱ヨシカワ社長)がヤクルトをまだ“うち”と言っているのに頬がゆるんだ。改めて敬意を表した=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

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