【越智正典「ネット裏」】先週、往時、大洋ホエールズに入団した「明大五人男」の一人、黒木弘重に会った。大洋のユニホームを脱いでから彼ほど明大監督島岡吉郎に感謝し、陣中見舞いを届け続けた男はいないからである。そして今も明大を応援。昨年春は16試合神宮球場に。秋は7試合。春より少なかったのは前夜、そば湯割り焼酎を呑み過ぎたらしい。宮崎県立高鍋高出身。商学部を受験。「高鍋から急行高千穂で29時間かかって東京に着きました」。1952年1月末のことだった。

「おふくろが握りめしを二包持たせてくれました」

 急行高千穂と聞いてソフトバンク球団会長王貞治のキャンプインを思い出した。王が「高千穂」で、巨人がそれまでのキャンプ地明石から初めて移った、宮崎に向かって東京駅を発ったのは59年2月1日午前11時である。この日になったのは卒業試験の関係からである。2日午後1時過ぎ宮崎に着いた。駅に52年、長野県辰野高から入団した、大型捕手山崎弘美が出迎え。山崎はよく働くことからいつしか二軍マネジャーのようになっていた。

 山崎はタクシーで王を巨人一軍宿舎、大淀川河畔の宮崎観光ホテルへ。ホテルまで、たしか交通信号は二か所しかなかった。ロビーは吹き抜けで明るく、品のいいホテルだった。のちに一軍宿舎となる江南荘はこのときは二軍の宿で、夜になると、北海道北見北斗高出身の長身の投手、黒田能弘ら二軍選手が、江南荘の下駄を履いて「オバンです」とやって来た。彼らにとって一軍宿舎は“観光名所”だった。二軍の若者たちは純であった。

 翌2月3日、監督水原茂がナインを集めて王を紹介した。57年のセンバツ優勝投手、超高校級の新人だったからではない。水原はだれでもみんなに紹介した。

「新しい弟が増えた。よろしく頼む」

 球場はいまの青島ではなく、駅のそばで、門を通ると縁日のように風船や風車、綿あめの店が並び賑やかだった。屋台のすぐそばのブルペンで王はピッチング練習。第1組で投げた。1組だったのは、打撃練習のピッチングマシーンを“運転”する仕事が待っていた。当時のマシーンは、ときどき機械油を差さないと動かなくなる。日が暮れるまで“運転”していた王は、連日油だらけになっていた。

 休日。多くの先輩たちは映画を見に行ったが、王は明日に備えてグラウンド整備に行く。グラウンドキーパー、務台三郎に従って球場へ。手伝いをした。王は一生懸命働く務台が大好きだった。父、母、両親の辛苦を思ったのであろう。

 キャンプが進んだ夜、務台が「ワンちゃん、ご苦労さん」と、王を部屋に招いた。鉄板焼き。王はネオンの街へは行かなかった。62年一本足で初のホームラン王になっても、夜は、石坂屋旅館の務台の部屋にいた。 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)