【越智正典 ネット裏】大学野球も始動した。1月17、18日の2日、横浜で全日本大学野球連盟の「平成29年度監督会」が開かれた。監督会会長、明治大監督善波達也をはじめ、中京商業(中京大中京)時代の師、杉藤文や、豊田大谷高、山梨県富士学苑監督時代の恩を胸にしている、書道の達人、愛知学泉大監督後藤篤ら177人が参集。2日目は午前10時から星野仙一の特別講演。私が星野の講演を最初に聴いたのは1986年夏、電電公社が民営になった直後の、愛知県春日井の電話局での講演会である。星野はこのとき評論家として活動していた。

「倉敷商業の卒業が近づいたとき東京の大学で野球をやりたいというと、おふくろが許してくれましたので、どこへ行こうかと考えましたが、東大だけはわたしのほうからご辞退いたしました」。爆笑で始まり湧きに湧いた。

 その次は、星野が中日の監督に就任して2年目。秋には優勝することになる88年、沖縄キャンプの2月9日。具志川市教育委員会主催の講演会である。星野はスラックスにセーターで、スイと登壇した。

「こんな格好で参りました。皆さんと友だちになりたいからです。背広にネクタイでは堅苦しくなります。わたしは頂いたちいさなご縁を大切にして今日に至りました。どうか、よろしくお願いいたします」

 指笛と拍手。本土復帰記念会館のホールは超満席。記帳した人たちだけで1300人を数えた。どの窓も入れなかった人たちが首を突っ込んでいた…。講演にしても、歌にしても舞台で大切なのは出と引っ込みである。

 前記1月18日の朝、星野は9時10分に会場ホテルにやって来た。50分前。関係者はまさかこんなにはやくとは思ってもいなかったであろう。だれひとり出迎えていなかった。あとで伝え聞いた楽天副会長付、福田功(中央大、中日捕手、中日二軍監督)は「副会長は昔からはやいんですよ」と頷く。

 定刻、星野は下座のドアを押して静かに入室し、深々と一礼した。1月22日が誕生日で70歳になる。流石に重厚である。“勝負あった”。星野はそれから星野に講演を依頼した東京六大学野球連盟事務局長、内藤雅之の“サイン”に従って、ステージ下の椅子に着席する前に、それは丁寧に今度は二礼した。内藤が星野を紹介した。見事な登壇だった。

 星野は明大時代の恩師島岡吉郎の人間教育を語り、野球の普及を訴え「野球をアマとプロという区分で考えてはなりません。野球はひとつです」と、結んだ。

 このとき、ホール横の受付で東都大学連盟事務局の学習院大卒、瀬尾健太郎と、監督会初日に設立が決まり、野球普及委員会の委員長に推された、高知市春野町出身、土佐高、東大、東大監督浜田一志の2人は、出席者に帰りに配る関係書類を整えるのに“まっこと”一生懸命であった。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)