【越智正典「ネット裏」】暮れの12月10日。4日に急逝した荒川博の通夜が東京中野の名刹、宝仙寺でいとなまれた。読経が始まった。気性がさっぱりしていて江戸前の彼は1930年8月6日、浅草馬道で生まれ育った。少年時代、浪曲のあの広沢虎造にもヒロシ、ヒロシ…と可愛がられ楽屋に遊びに行った。楽しかったが、芸に打ち込む男のきびしさを知った。のちに川上哲治に贈られた「一打一生」が彼の座右の銘になる。彼と仲がいいと言っている永田町の先生は一生一打…とトチっている。トチると秘書が…と言い訳をする。これだから困る。

 戦前、東京の商家の子弟は早稲田実業に進んだ。彼の実家は浅草浅草寺や待乳山聖天に供物を納める果実商。早実2年の45年3月10日、下町は大空襲で焼尽した。8月15日、終戦。戦争が終わってから8月6日に広島に原爆が投下されたのを知った。

 浅草にも闇市が出来た。人々は生きて行かねばならない。が、父親は頑として出店しない。

「露天に店を出したら浅草寺にも待乳山さんにも申し訳ない」。母親がかくれて商いを始めた。博は母を助けた。このときの人々とのやりとりが、あとでコーチに役立つ。わかりやすい。

 早実の後輩、榎本喜八(2016年殿堂入り)が3年生になったときに、バッティングを教えてください…と訪ねてくると「1年間、毎日、朝500本、夜500本バットを振るんだよ。バットは箸、ヒットはご馳走。箸をちゃんと使えないとご馳走は食べられないよ」。世界のホームラン王となる王貞治も“ご馳走”から稽古を始めた。後年、榎本、王、末次、黒江らが“師匠”に誕生日のお祝いを申し出ると、荒川は「8月6日は祝いをする日じゃあーないよ」。広島を想って一度も誕生日の祝いをやっていない。

 荒川が野球を始めたのは戦後で、左腕から投げ込むドロップは評判になった。49年早大監督森茂雄に打者転向、抜擢された。好機に強く、自分で工夫をしてこの頃に、右足を少し上げて“一本足”で打っていた。50年、東京六大学選抜に選ばれハワイ遠征。みんなは砂糖をみやげに買って来たが、彼は「忘れちゃった」。53年毎日オリオンズに入団。61年、整理になると、巨人監督川上が打撃コーチで迎えた。これからは若い時代が来ると、就任から1年間、若いコーチを探していた。川上は偉かった…。

 お堂の外に一般焼香を待つ人々が並んだ。荒川がヤクルトの監督に就任した74年の秋のドラフト2位、福岡第一高、二軍1年で抜擢された角富士夫(ヤクルト編成部次長)が気を付けをしていた。速球に強かったあー。上宮高、東京農大、南海、西武、大洋の片平晋作も気を付け。彼は荒川、王に一本足を学んだ。2人とも義理堅い。早実、明治大、六大学先輩理事、高森啓介は人々と目が合うと黙礼していた。私はしみじみと黙礼に学んでいた。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)