死去の加藤初さん 病魔と闘い続けた“鉄仮面”の壮絶人生

2016年12月21日 16時30分

1982年の巨人グアムキャンプで。左から角盈男、新浦寿夫、定岡正二、香坂英典、加藤初さん

「鉄仮面」が静かに息を引き取った。巨人などで活躍した加藤初(かとう・はじめ)氏が11日午後2時32分に直腸がんのため静岡県内の病院で死去していたことが分かった。66歳だった。巨人が20日に発表した。喪主は妻の和江さんで通夜、告別式は親族などの間で、すでに行われた。本紙では2008年1月8日発行紙面から「鉄仮面の告白」のタイトルで3か月に及ぶ連載を執筆した。

 

 マウンド上では常にポーカーフェース。現役時代は「鉄仮面」の異名を取った。表情を変えることなく数多くのピンチを乗り越えてきた加藤氏は約5年に及んだ闘病生活を最後まで必死に闘い、66年間の生涯に幕を閉じた。

 

 1949年12月20日生まれ。静岡・吉原商から亜大へ進学した。同大中退後に大昭和製紙(現日本製紙)を経て71年のドラフト外で西鉄(現西武)に入団。プロ入りした際には幼少期からファンだった巨人を含め、複数球団の打診があったという。西鉄を選んだのは、最初に声を掛けられた恩だけでなく“黒い霧事件”と呼ばれた八百長問題で主力投手が退団した直後で投手の層が薄く、最も出番が多いと考えたから。多額の契約金を出すという球団もあったが、信念を貫いた。1年目には17勝(16敗)をマークし、新人王を獲得した。

 

 75年オフに巨人へトレードで移籍。この年最下位に沈んだ長嶋茂雄監督の“ご指名”で、76年シーズンは期待通りに先発にリリーフに大活躍。15勝4敗8セーブを挙げ、長嶋監督の初優勝に貢献した。同年4月18日の広島戦ではノーヒットノーランを達成したが、その裏には長嶋監督ばりのひらめきがあった。当時の球種はストレートとカーブのみ。だが練習もしていないフォークを決め球に使うことを試合前に思いつき、試したところ赤ヘル打線が困惑、凡打の山を築く結果となった。

 

 長嶋V1に沸く中、ばら色のオフを過ごすはずが、病魔に襲われた。日本シリーズ後の健康診断で肺に影が見つかり、極秘入院。病室に偽名を掲げる厳戒態勢も、V旅行にも行かず、オフの行事にも参加しないことから、2週間ほどでマスコミにバレてしまう。病名を「ろく膜炎」と発表するが、実際は「肺門リンパ腫」。当時は難病で、担当医から家族に引退を覚悟するように伝えられたという。

 

 77年2月に退院すると、奇跡の復活。6月に一軍に昇格し、13試合に登板(4勝1敗3セーブ)した。83年には右肩の血行障害に見舞われた。6月の試合後に右腕が胸より高く上げられなくなり、日常生活にも苦労するほどで手術を決断した。太ももの血管を右肩に移植する球界初のケースだったが、9月末に復帰。決して若くない33歳で手術を受け、40歳まで現役を続けた。

 

 現役終盤はコーチ兼任となり、引退後は日本球界だけでなく韓国、台湾でも長くコーチを務め、異国でも基本の徹底を説いた。現役19年で490試合に登板し、141勝113敗22セーブ、防御率3・50。山あり谷ありの野球人生だった。