【越智正典「ネット裏」】みのりの秋である。巨人、中日で外野手、楽天で二軍監督も務めた仁村薫も丹精の秋を迎えている。中日時代の愛称は“おにいちゃん”。2歳下の弟徹と一緒にスタメンのときは、中日球場のスコアボードに「仁村兄」「仁村弟」と出ていた。見るだけでほのぼのとあたたかかった。1988年10月7日、監督星野仙一が初優勝を決めたときは、兄弟揃って気を付けをしドラの裏方さんたちに最敬礼をしてから、選手集合会場に向かっていた。残心。

 おにいちゃんは59年5月9日、埼玉県川越で生まれ、川越商業でピッチャー。家は沢山、田畑を持っている農家である。私が初めて兄弟の父親、実氏に会ったのは、79年夏の高校野球埼玉大会の決勝当日の県営大宮球場である。徹がエースの上尾高校が甲子園行きを決めることになるのだが、見に来ていた氏は「徹よ、勝て」などとはこれっぽっちも言わなかった。

「高校野球は有難いです。徹は上尾へ自転車で通っているのですが、近所の人たちから“けさ、徹くんに会ったよ。自転車を止めて、おはようございますと言ってくれたよ”と、言われるようになったのがうれしいです」

 このとき、兄薫は早大2年生。球ひろいだったが監督宮崎康之が一心な姿に心打たれて抜擢。東京六大学の、神宮球場のマウンドに立つことに間もなくなろうとしていた。3年生の春、早大開幕第1戦の立教戦に初登板、初完封をやってのけることになる…。

 教育学部卒業の4年生になった81年6月、第10回日米大学野球選手権が日本で開催された。薫は全日本に選ばれる。第2戦に登板し勝利投手。そして第4戦。全日本監督“御大”島岡吉郎は0対0の7回、チャンスを迎えると、薫を代打に起用した。ピッチャーなのにだ。薫は左腕ボスバーグから神宮球場の左中間に殊勲の勝利3点弾。3対0。日本は4勝3敗で優勝。大会が終わると、島岡は、ありがとうと彼に万年筆を贈った。薫は巨人を整理になり星野にドラに呼ばれたときこの万年筆で契約書にサインした。

 おにいちゃんは野球のユニホームのすべてを脱ぐと父のあとを継いで稲作に励んでいる。台風が相次いでやって来たことしの刈り入れ前、大事なときだ。彼は風雨のなかを、朝夕、田んぼを見廻った。彼は株に話しかける。「もう少しだ。頑張って立っていてくれよ」。隣りの株に寄りかかられたのを抱きかかえるように立っている株がある。「チームプレーだ」。見廻るたびに毅然としている姿に、感動につかまっていた。刈り入れが終わると、彼は呟いていた。「よく、耐えてくれた。ありがとう」。さらさらと、真っ白い新米は宝石のようである。品種をたずねると「“未来の輝き”です」。彼は品種名に惚れた。彼の呟きと祈りはコーチ論、選手育成論にも思えた。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)