【越智正典「ネット裏」】レギュラーシーズンの優勝を目の前にした9月23日、日本ハムの左腕、176センチ、73キロの武田勝が静かに引退を表明した。勝って男の花道を――。そんな引退はプロ野球にはない。ことし彼には一軍登板はなかった(通算82勝61敗1セーブ、防御率3.02)。そこで自ら去る――。それがプロ野球である。

 話はそれるが、西武の監督だった森祇晶は就任したときから「監督は敗けたら辞めるのが商売や」。胸に刻みつけて来た。だからこそ、リーグ優勝8回、日本シリーズ制勝6回。見事に勝利の歴史を綴れたのであろう。

 武田勝は1978年7月10日、名古屋市西区で生まれた。母と姉2人。上名古屋小学校4年のときに部活で野球を始めピッチャーになった。浄心中学3年のある日、中京大中京との練習試合で名古屋に来た、関東第一高から試合を見に来てくれないか…と連絡が入った。「ハイ」。行くと、監督小倉全由(現日大三高監督)が「投げてくれないか」「ハイ」。あとで武田勝は「不思議でした。1球投げただけで関東一に来ないかと誘ってくれたんです」。小倉はフォームを見たのではない。目を見たのだ。澄んだ目に小倉は感動した。

 武田勝は関東第一へ。はやく世の中に出て母を早く楽にしたかった。合宿に入ると、休日の前夜、球友たちが「オレんちへ泊まりに来いよ」。名古屋から来たので淋しかろうと、誘ったのだ。小倉は、そういうチームを作っていた。1年の夏、甲子園大会へ。卒業が近づくと、先輩森谷茂が「立正大へ来いよ」「ハイ」。彼ほどみんなに愛された選手はそうはいない。専修大前GM、監督、江崎久は、球界でいう“蝶々が止まりそうな球”を一生懸命投げている武田勝を応援していた。話は先に飛ぶが、専修大マネジャー松本陽子が武田勝と結婚することになるのも縁である。江崎は、マネジャーを慈しんだ。

 武田勝が神宮球場にデビューしたのは2年生の春であったが、6敗。負けて熊谷の合宿所に戻ってくると、隣りのグラウンドを走った。が、勝てそうになかった。実はヒジを痛め左手で帽子もかぶれなかった。彼はすると、左の指先を鍛えたが、東都2部のまま卒業。社会人野球シダックスへ。給料取りになれた。プロへの思いがふくらんだ。

 2、3球団から話があったが残留した。先輩投手2人がプロへ行く。彼の“お礼奉公”の姿を日本ハムGM(現顧問)山田正雄が見逃さなかった。2005年大学社会人4位で指名することになる。山田は人間性を見て選手を獲り、チームの基盤を固めた。帝京の173センチの内野手杉谷拳士を獲るときは勇気を評価した。

 私はいま、彼が立正大4年の春、沖縄キャンプに先乗りした日を思い浮かべている。投手金剛弘樹が守備練習のとき、一塁手を務めていたが金剛の送球を全球拝み取り。練習のときでも、アウトを一つ、ひとつ、大事にしていた。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)