【越智正典「ネット裏」】1950年、市民球団として発足した広島カープはすぐに球団の台所がきびしくなり苦闘を続けていた。49年に1リーグ8球団だったのに、この50年から2リーグ15球団。けわしい現実にぶつかるのは当然であった。選手の給料は遅配。連盟加盟金の支払いも待ってもらっていた。

 東洋工業の社長、松田恒次が球団を引き受けオーナーになったのは62年11月27日であった。松田は静岡県焼津の、4番興津達雄の父親の人柄に心打たれ、興津だけには、少年時代、野球をやっていたのがどんなにたのしかったか…と語っている。興津は広島を訪れると必ず松田恒次の墓参りに行く。同行者によると、1時間も手を合わせている…という。松田は、といって、翌日の先発メンバーにまで口を出すオーナーではない。

 就任すると、翌63年春は県外キャンプを実施するように要望し内示した。それまでカープはオカネがないので県外キャンプを実施出来なかった。県内の呉、二河公園球場に決まっていた。松田はもっと暖かいところで練習を…というのではなかった。球団関係者、選手たちの視野を広くしたかったのだ。

 監督白石勝巳は感謝し、のちの育成部長竹内鉄男(中京商=現中京大中京、法政大、マネジャー)を呼び、県外キャンプ地を探すように指示した。竹内も喜び勇んで九州へ。が、見つからない。社会人、大学…の先約も入っている。竹内は鹿児島のグラウンドキーパーから日南に球場があるよ…と聞いた。

 日南? 聞いたこともない。宮崎から行ったらいいよと教わりすぐに宮崎へ。駅の近くの宮田旅館に飛び込み、わけを話し、翌朝日南へ。バスはデコボコ道を走った。当時は2時間。市役所を訪ねた竹内は球場の所管が土木課だったのに驚いた。そんな時代である。

 不安になったが天福球場前に立った竹内は、ここだ! と心のなかで声を上げた。北に小高い山。北風をさえぎる筈だ。樹々は美しく、南に海。黒潮が走っている。グラウンドの土も申し分ない。町を歩いてみると人通りは多くなかったが人情が行き交っていた。映画館は昔の芝居小屋のようで、桟敷に煙草盆。お銚子1本70円。大きなタクシー会社に車がずらり。社長外山勇二は義侠心を胸に、カープを助ける。カープはのちに外山にキャンプ部長を要請する。

 63年、情報提供のお礼もあってバッテリーが1月なかばから鴨池球場で合同トレーニング。野手は1月25日、広島から空路鹿児島に向かった。これも松田恒次の計らいである。空路キャンプインはカープにとって一大“壮挙”であった。搭乗機が離陸しべルト着用のサインが消えると、どっと歓声があがった。カープの、結団以来初優勝のドラマが始まろうとしていた。

 ナインは鹿児島からバスで日南へ。天福球場のスコアボードのポールには鯉のぼりが泳いでいた。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)