【越智正典「ネット裏」】いよいよ、広島カープの優勝である。カープの本拠地、マツダスタジアムの前売り入場券は最終戦までとっくに売り切れている。ふだん、選手の家族や野球関係者に、一生懸命応待し、尽くしているカープのスカウトも、なんとかなりませんか…と頼まれてももうどうにもならない。申し訳ないです…と、スカウト統括部長苑田聡彦は、広島から大入り袋を送ってもらって最敬礼でとどけている。せめて…という心くばりが、丸佳浩、菊池涼介、神ってる鈴木誠也…ら快進撃の見事なチーム編成を成し遂げたといえる。

 苑田は、選手によく言う。「(契約書に)ハンを押したらグズグズ言うな」。言外にそんなヒマがあったら練習せい…という意味がこめられている。乱暴ないい方のようだが、選手にはこういういい方のほうが通じる。苑田は、松田恒次の教えを選手に伝えているのだ。松田恒次は、折々に幹部職員、幹部選手に諭している。

「世の中は、約束、契約で成り立っているんだよ」

 今日のカープは1950年秋、セ・リーグ会長鈴木竜二が、まだカープのオーナーになっていなかった東洋工業社長松田恒次に喜捨を頼みに行ったときに始まっている。

 終戦とともに日本じゅうに野球への思いが燃えひろがり、翌46年、職業野球が復活。49年、新球団の加盟申し込みが相次ぎ、50年、それまで1リーグ8球団だったプロ野球は、セ・パ2リーグに。セが8球団、パが7球団、計15球団。いっぺんに7球団も増えれば試合は大味になる。このままではやって行けない。2リーグ第1年が終わりに近づくと、従来球団から新規球団には遠慮して貰おうという声が上がった。鈴木は広島の灯だけは消してはいけないと松田恒次を訪ねたのだった。

 松田のオーナー就任は1963年2月になってからであるが、松田恒次はポンと200万円を出した。お巡りさんの初任給が3991円の時代である。野球でいうと、審判必携のルールブックが1冊80円。業者がUSA牛革とすすめていたキャッチャーミットが1850円。町の“名キャッチャー”が使っていた特別布製キャッチャーミットが420円。びっくりする大金である。

 松田恒次は、鈴木に言った。

「このカネを、カープの選手の遅配中の給料に廻しても何もならない。どうか、カープの未来をになう若い選手の育成に使ってください」。67年、球団代表に就任した西野襄は、松田に心打たれ、感謝し、球団のなかに「育成局」を作った。格付けをしたのだ。松田恒次の思いを永く伝えるためだった。西野はウエスタン・リーグが発足し機構が言って来た試合開始午前11時を改め正午とし、入場料100円を無料にした。広島市民球場の近くに勤めているOLが、お弁当を食べに来た。若い選手を応援した。カープ女子のはじまりである。=敬称略=